ダークナイト(続):バットマンはなぜジョーカーを殺せないか?

朝早く眼が覚めると、「ダークナイト」のことを考えていた。鑑賞から数日経っても、バットマン、デント、そしてジョーカーという3人の人物像についての強烈な記憶がよみがえる。恐ろしい映画である。
ジョーカーはバットマンが戦う敵であり、究極の悪である。にもかかわらず、幾度ものチャンスがありながら、バットマンはジョーカーを殺せない。この設定は、一見したところ、バットマンに「最後の良心」があることを描いているように見える。しかし、作者の真意はそんなに甘いものではないだろう。
バットマンが実際にやっていることといえば、拉致(しかも国際的な)、盗聴(しかも全市民からの)、癒着(しかも警察幹部との)、裏帳簿、暴力、そして殺人と、第一級の犯罪である。これだけの罪をおかしながら、ジョーカーを殺せないのは、不条理であり、滑稽だ。
一方の、正義の騎士、バーヴェイ・デントは、駆け出しのころにtwo faceと呼ばれていた。two faceは「こうもり」という意味だ。表向きは正義の騎士だが、目的のためには手段を選ばないという二面性を持つ人物として描かれている。そして、ジョーカーの罠に落ち、2つ目の顔が暴走を始める。two faceの本性をあらわしたデントには、もはや「最後の良心」すらない。ジョーカーの罠は、デントの怨念がバットマンに向けられるように巧妙に仕組まれていた。バットマンはデントの暴走を止める役割を演じることになる。
それでもなお、バットマンはなぜジョーカーを殺せないのか?
それは、バットマンの本質が「正義」を信じるテロリストにほかならないからである。デントはtwo faceではあっても、テロリストではない。犯罪者に転落はするが、普通の人間だ。しかしバットマンは違う。ダークナイトとしての宿命を背負って去っていくバットマンに対して、ゴードン市警本部長は、「彼は強い」という。その「強さ」とは、信じる「正義」のために自らに対してテロリストとしての使命を課しているところにある。
そのバットマンにとって、ジョーカーを殺すことは、自分の存在を否定することにほかならない。これこそ、「ダークナイト」が描く数々のジレンマの中で、もっとも解きがたい、究極のジレンマである。
合衆国市民ならずとも、バットマンの姿にテロとの戦いを続ける合衆国の姿が重なって見えてしまうだろう。「正義」を信じるテロリストという、矛盾だらけの人物としてバットマンを描き尽くした点で、この作品はすさまじい衝撃を観るものに与える。
そんなバットマンに感情移入することは到底できない。two faceと化したデントもまた、「かわいそう」という感傷すら抱かせない人物として描かれている。
一方で、ジョーカーの心理的インパクトはすさまじい。市民を、警察を、そしてバットマンとデントを手玉にとるだけでなく、その心理操作力は観客にも及んでくる。いつしか観客は、バットマンでもデントでもなく、ジョーカーに心を奪われてしまう。この映画の主役はジョーカーである。そして真の主役は、ジョーカーに心理を操られた市民であり、観客なのかもしれない。
恐ろしい映画である。