夢の大切さ

ひさしぶりに青臭いことを書いてみようという気持ちになった。それは、夢についてである。
昨夜は遅くまで、「環境分野の技術力国際比較」という仕事に時間を割いていた。執筆担当者の草稿を読んで、「日本が強いところ、弱いところをもっと具体的に」などと、いかにも月並みなコメントを書いて、メールで送った。しかし、仕事をしていて、どうしても楽しくなれない。どうも、何か大切なことを忘れているような気がして、後味が悪かった。
今日は東京で学振の会議に出たあと、都内のホテルでくつろいでいる。仕事は山ほどたまっているが、たまには少し緊張を解いて、疲れをとらないと、気力も体力も続かない。
少し立ち止まって、気分転換をしてみると、何が足りないかがわかった。それは、夢である。
「こんなこといいな、できたらいいな」という夢が足りないのである。ドラえもんの歌は、「こんな夢、あんな夢、いっぱいあるけど」と続くけど、その夢をすっかり忘れていた。
「環境分野の技術力国際比較」の仕事で要求されているのは、「日本が強いところ、弱いところ」のレビューではあるのだが、そもそもどんな夢を実現したいのかが明確になっていないと、比較をしてみてもむなしいのだ。「日本が遅れているから、もっと研究投資を」という論理では、競争が自己目的化している。
自分の夢とはちがったレビューワークに憂き身をやつしている間に、肝心のことを忘れていたようだ。今日はそれを思い出すことができて、少なくとも自分に納得がいった。
ほんとうは、分野の評価のような大それた仕事ではなく、自分の夢を追いかけたいのだが、立場上、そうとばかりもいかないのがつらいところである。
最近、立場上、評価の仕事に携わったり、逆に評価をされたりすることが多い。そういう経験をふりかえってみると、評価する立場の人が夢をなくしているために、かなりまずい事態が生じている場合があるような気がする。今日は、それが他人事ではないことに気づかされた。

あこがれは
我が手の玉
地に落とし
うち砕くとも
なほわがものぞ

夢と現実の乖離に耐え切れず、瀬戸内海に身を投げた生田春月の詩である。夢のない現実に絶望しても道は開けないが、さりとて現実に埋没して夢を忘れてしまっては、何のために生きているか、わからない。