大学生のコミュニケーション能力

昨日の午後と今日の午前中は、深津武馬さんの集中講義を聞いた(昨日は、学内ヒアリングのため一コマ分欠席したが)。今日の夕方は、六本松キャンパスで九大生協の臨時総代会に出た。まったく違う経験を通じて、大学生のコミュニケーション能力の問題を考えさせられたので、今日はその点について書いておこう。
九大生は、質問するのが苦手である。深津さんの集中講義では、結構質問が出たが、質問をした人は限られていた。9割の学生は、4コマ分の講義と1コマのセミナー通じて、一度も質問をしなかった。
これはいつものことなので、私は各コマの講義が終わるごとに、A4の紙を配って、質問を書いてもらった。私が授業でいつも使っている方法である。紙を配って、書くことを強制すると、何かしら考えて、質問を書く。このように質問を考えることを強制すること自体が、ひとつの教育だと思っている。
質問を思いつかない人は、感想でも良いと言っておいた。すると、「アブラムシがかわいいと思いました」といった類の、小学生レベルの感想が散見された。いや、小学生でも、もっとましな感想を書く子はたくさんいる。
自分の感想を、限られた時間の中で、読者にメッセージが伝わるように書く能力は、社会人としてぜひとも備えてほしい。それができないことを、恥ずかしいと思ってほしい。一人の人間として、あまりにも稚拙だと思ってほしい。
日常生活の中で、自分の意見や考えを真剣に相手に伝える場が、少ないのだと思う。だから、表現力が身についていないのである。そもそも、真剣に表現するという必要性を感じていないのだろう。だから、感想を求められても、他愛のない日常会話のレベルで対応してしまうのだろう。社会人として、それでは困る。もしかすると、本人はさほど困らないかもしれないが、周囲は困る。
昨夜、深津さんを囲んでの懇親会の席上で、大学院生が自分の研究を紹介した。彼ら・彼女らは、研究内容を説明することに関しては、相当なトレーニングを積んでいる。しかし、その彼ら・彼女らすら、短い時間で説明しようとすると、意外に説明できないものだと感じた。上記の授業の感想と、通じる問題があるのかもしれない。相手に伝えなければならないことを、優先順位を判断して、短い時間で的確に話すことが苦手なのだ。
そして、今日の総代会。六本松キャンパスが、平成20年までに新キャンパスに直接移転することがほぼ確定したので、臨時総代会を開催した。大学から、新キャンパス計画推進室、学務部、施設部などのスタッフが、学生の質問に答えるために、六本松まで足を運んでくださった。しかし、出た質問はひとつだけ。スタッフの方々には、「拍子抜け」の展開だったに違いない。私のほうで、質問票を配るような知恵を組織部の学生に授けておくべきであったと反省した。とはいえ、ここまで質問が出ないとは予想もしなかった。
先ほど、偶然見つけたブログに、こう書かれている。

  • 行政でもトヨタでもJRでもANA等どこの世界でも、・・・「自ら考え行動できる人材」「どこの世界に行ってもコミュニケーションが取れる人材」を求めている。

まったくその通りなのだ。しかし、大学生のコミュニケーション能力は、確実に低下していると思う。
コミュニケーションとは、他愛もない会話を交わして、表面上の人間関係をつくろうことではない。社会に出れば、さまざまな局面で、考えや立場の異なる人と接し、相手の意見を良く聞き、自分の意見を述べながら、利害を調整しなければならない。
以前は、大学生として大学生活を送る中でも、さまざまな対立を経験することができた。自ら考え行動しなければならない状況があった。今の大学生は、肌があわない相手とは、表面上の人間関係をつくろうだけで、意見をかわすことを避けているように思う。真剣に議論することは、面倒なのかもしれない。
思えば、最近研究室の中で生じる対立に関して、私が仲裁に入ることがしばしばある。
ここ数年、何となく感じてきた変化が、はっきりとした形になってきたように思う。
大学生のコミュニケーション能力が低下しているなら、それを育てる責任を、私たち大学教官は問われることになるだろう。愚痴を書いている場合ではない。事態にどう対応するか、真剣に考えなければならない時代に来ているのかもしれない。
私の杞憂であれば良いが、どうもそうではないように思う。