ゲド戦記:連日の試写会

週末は、各地でゲド戦記の試写会が開かれたようで、はてなダイヤリーでも、「ゲド戦記」を含む日記がかなりの数に及んでいる。評価は二分しているようだ。
この映画は、成功が約束されている。何しろ、原作が良い。しかも、ジブリのスタッフがその技術的蓄積を駆使して制作にあたる。ジブリファンという固定客がいる上に、宣伝戦略には、老練な鈴木プロデューサーが手腕を発揮している。これでヒットしないわけがない。
一方で、この映画は、酷評されることもまた、約束されている。原作は、人間の内面的葛藤や内面的成長を描いた大作だが、アニメという表現手段は、内面を描くことに適していない。セリフで説明すれば口説くなるし、内面の描写に関しては、「百聞は一見にしかず」とはいかない。むしろ、「百見は一文にしかず」なのである。だから、原作のファンは、必ずどこかで失望を感じるだろう。
ジブリファンという固定客もまた、失望を味わうかもしれない。ハヤオとは違うカラーを出そうとした部分に関しては、往年のハヤオファンに違和感を与えるだろうし、ハヤオ路線を継承している部分では、なんだオヤジと一緒じゃないか、と評価される宿命にある。
ゲド戦記」という題材は、決して子供向けではない。むしろ、大人向けのファンタジーだろう。わくわく・どきどき型の冒険談ではないので、少し理屈好きの観客が多いだろう。勢い、点は辛くなる。
そもそも、「ゲド戦記」という大作を、ハヤオの後をついで作るということが、無謀なのだ。どうやっても、必ず酷評される運命にある。
それを承知で、この大作に挑んだ無謀さの行末こそが、今回の「ゲド戦記」の見所だと思う。
父「ハヤオ」が、「すなおな作り方で良かった」と評したそうだが、この評価は意味深長である。無理にハヤオとは違うカラーを出そうとすれば、大失敗をしかねない。そういう大失敗はなかった。しかし、それは大きな冒険をしなかったということでもある。
ゲド戦記」アニメ化というチャレンジを通じて、吾郎新監督が、現実的な制約といかに格闘し、どんな答えを出したか、興味津々である。
この作品には、辛口の評価が寄せられると思うが、私は次につなげられるだけの評価を得られれば、十分だろうと思う。
むしろ、「ゲド戦記」後の次の作品こそが、吾郎新監督の真価をうらなうものになるだろう。その意味では、「ゲド戦記」があまり成功しすぎないほうが、リラックスできるかもしれない。