異を唱えることの意義

今日は、新キャンパスの緑地管理WGコア会議のあとで、嬉しい報告を受けた。
造成で削られる予定の尾根を残す修正案を検討したところ、用地面積を減らさず、しかも造成費用をかなり大幅に削減できる解がみつかったという知らせである。なぜそんなことが可能になったかという事情の説明は省略するが、とにかく良い知恵が出たのだ。事務の方からも感謝された。問題は、理想的な解決を見た。
年度末に、ほとんど決まりかけていた案に対して、私が異を唱えた。このような経験を積み重ねた私ではあるが、やはり大勢に異を唱えるのは、しんどい。
日本では、大勢に異を唱えない文化が根強い。「朱にまじわれば赤くなれ」「郷に入らば郷に従え」「赤信号、みんなでわたれば怖くない」などなど、周囲と同じ行動を良しとする諺や標語は少なくないが、異を唱えることの意義を尊ぶ諺は、聞いたことがない。
その結果、少数の人間が考えた方針に「大勢」が従うことが多い。その中で、大勢に異を唱えるには、ちょっとした決意が必要とされる。研究面では、オリジナルな成果が出にくい風土である。
しかし、少数の人間が考えた方針には、どこかに綻びがあるものである。おかしいと思う点があれば、自由に異を唱えられる文化が、これからの時代には必要とされていると思う。