金メダル・平和・ファンタジー

行き着けの定食屋で、昼食をとって研究室に戻ったところ。定食屋のテレビでは、NHKの「のど自慢」が流れていて、オバチャン2人が楽しそうにピンクレディを踊っていた。87歳のおばあちゃんも、元気に歌っていた。平和である。これはすばらしいことだ。
荒川選手が金メダルをとる2時間ほど前まで、科学技術振興調整費の申請書の仕上げに追われていた。タクシーで帰宅し、一風呂あびて、もう少しでフィギアの演技が始まると思ったが、睡魔に勝てず、爆睡した。起きたときには、表彰式の様子がテレビで放映されていた。演技のビデオを見てから出勤し、申請書の最後の仕上げ。10時半から、伊都キャンパス緑地管理に関する打ち合わせ。昼休みに、最後のチェックをして、1時にメールで申請書を送った。午後は、学位審査会が3つ。これで、嵐のような年度末スケジュールが、峠をこえた。
金メダルについて、私がまず思うことは、平和のたまものだということ。小さなころからスケート教室に通い、才能を伸ばせたのは、日本が平和だったからだ。海外の戦争に巻き込まれず、内戦もなく、約60年間、発展を続けることができた。その結果、スポーツ・芸術・科学などさまざまな分野で、日本人は才能を発揮し、歴史を積み上げることができた。
スポーツ・芸術・科学を問わず、高い水準は一朝一夕には達成されない。蓄積が重要である。誰かが銀メダルをとれば、その水準に到達することは、夢ではなく、現実的な可能性になる。次の世代は必ず金メダルをめざす。そうやって、一歩一歩、水準を高めてきた結果が、荒川選手の金メダルにつながった。同じことは、科学の世界にもあてはまる。
以前は、日本選手がフィギアで高い芸術点をとるのは難しいと言われていた。そこで、技術点で勝負する戦略が採用されていた。しかし、荒川選手は点数にならないイナバウアーで自分を表現し、世界を魅了して、金メダルを獲得した。組織の戦略ではなく、自分らしさを追及した結果の金メダルである。すばらしいことだ。
「追いつけ追い越せ時代は終わった」と言われてひさしいが、この言葉をさかんに使う世代の人たちは、組織や国家の呪縛にまだしばられていることが多いように思う。
ごく当たり前のこととして、世界の人たちと交流し、その中で自分らしさを追及できる環境があれば、これからも日本人はさまざまな分野で活躍できるだろう。その「環境」を保証するのは、平和である。
昨日は、申請書準備のために後回しにせざるを得なかった緊急業務に時間を割いた。しかし、さすがに疲れが残っていた。何度も顔を洗いながら仕事に励んだが、夕方にはもはや限界と判断し、例によって気分転換に映画館に出かけた。ちょうど、「ナルニア国ものがたり」の先行上映日だったので、これを見た。
4人の子役の「平凡さ」が良かった。原作の持ち味を壊さないためには、ピーター・スーザン・エドマンド・ルーシィの4人は、どこにでもいそうな子供たちでなければならない。エマ・ワトソンのような美少女では困る。この点で、配役は的確だった。もちろん、「平凡さ」だけではこの映画の主役はつとまらない。物語の進行とともに、たくましく成長していく様子を演じなければならない。しかし、あまりわざとらしい変化はしてほしくない。子供らしさを残しながら、ひとまわり大きくなった表情を見せてほしいのだ。この点では、欲を言えばきりがないが、最後に王座に座るときの4人の表情は誇らしかった。
CGの技術もまた、秀逸である。スターウォーズハリーポッター指輪物語と比べ、さらに磨きがかかっている。原作の挿絵のイメージが、うまく表現されている。ビーバー夫妻が実物のように動きながら話すのを見るのは楽しい。ファンタジーに関して、「実写」だからと幻滅する時代は終わったと思う。もちろん、私はジブリのアニメの方が好きだが、異質なものを比べても仕方ないだろう。
映画の冒頭は、ドイツ空軍によるイギリス空爆シーンから始まる。この部分は、平行世界ではなく、実世界の話である。
ナルニア国ものがたり」も、「指輪物語」も、第2次大戦を経て生まれた作品である。これらの作品には、自由をかちとるための、巨大な敵との戦いが描かれている。もちろん、物語には、戦いのむなしさについてのメッセージが込められている。
映画の中でも、サンタクロースがピーターに剣を授けるとき、「戦いとは醜いものだ」と語る。スーザンは弓矢を受け取るとき、「戦いとは醜いものだと言わないのですか?」と聞き返す。それでも、たとえ傷ついても、自由の敵は倒さねばならないという思想が、「ナルニア国ものがたり」や、「指輪物語」の背後にはあると思う。
大人が書くファンタジーには、つねに大人たちから次の世代へのメッセージがこめられている。暗い大戦の時代を生き抜いたルイスやトールキンは、子供たちに贈る夢と冒険の物語の中で、敵との戦いを避けることはできなかった。
この点、ル=グウィンが描いた「ゲド戦記」の世界では、自己との葛藤と人間的成長が重要なテーマとなっている。ルイスやトールキンに比べ、より長く平和な時代を生きたル=グウィンが見出したテーマは、敵ではなく、自分との戦いだったのである。
その「ゲド戦記」が、宮崎吾郎新監督の下で、アニメ化される。大いに期待するわけである。イギリスで生まれ、アメリカ・日本で新たな発展を遂げたファンタジーの歴史の中で、吾郎新監督は次の高みをめざしているはずである。
吾郎新監督は監督日誌の前口上で、「私が映画を通して伝えたいテーマは、はっきりしています。」と述べている。そのテーマとは、
 「いま、まっとうに生きるとはどういうことか?」
あまりにもストレートな表現ではあるが、この問いは、世界三大ファンタジーが追い求めてきた古典的なテーマにほかならない。
ル=グウィンよりもさらに長く平和な時代を生きてきた吾郎新監督が、この問いにどんな答えを用意し、「ゲド戦記」をどんなアニメに仕上げてくれるのか、大いに楽しみにしている。