たかが名前、されど名前

ひらめき☆ときめきサイエンス「生物の進化と保全」の最後には、ダーウィンの似顔絵入りの「ダーウィン・ジュニア博士号」を参加者一人ひとりに手渡した。「ダーウィン・ジュニア博士号」には、一人ひとりの名前を手書きで入れた。私の下手な字でも、記念にはなるだろう。
手渡すときの問題は、読み方である。「翔」が二人いたが、一人は「ショウ」、もう一人は「カケル」。苗字とあわせて読むと、語呂でどちらかわかる。読んで響きが良いほうが正解だ。これは覚えやすい。
「一心」と書いて、「ヒトミ」。ひとみを閉じて、心を見る、と覚える。
「文加」と書いて、「アヤカ」。なんとなく、フミカよりアヤカのほうが、元気が良さそうだ、などと考えてみて、記憶に定着させる。
「博士号」を渡したあと、「アヤカと読んでもらってよかったね」というともだちの声が聞こえた。
こうやって、間違えないように努力したのだが、最初の「将大」君を、何を勘違いしたか、「マサタカ」君と呼んでしまった。「マサヒロ」としか読めないはずで、予習したときには一度も間違えなかったのだが、間がさした。
私の名前は、「徹一」と書いて、「テツカズ」と読む。ひとつのことに徹するようにという願いをこめて親がくれたくれた名前である。しかし、「テツカズ」では、意味が逆である。「何にもテツカズ」。
ひらめき☆ときめきサイエンスの講義に先立ち、このように自己紹介をした。使い古した手だが、何度使っても、受ける。親に感謝すべきかもしれない。
「言霊」という言葉があるが、人間は名前をつけて相手を呼ぶことで、そこに「本質」を見てしまう習性がある。もちろん、自分の名前にも、本質が宿る。
小学校のころ、とある宗教団体の集まりに出たことがある。「先生」と呼ばれているひとが、講話のなかで、こんなことを言っていた。
「この髪の毛を見てください。1本とります。これは先生の髪の毛です。私のノートを破ります。この紙切れは、単なる紙切れです。違いがわかりますね。髪の毛には、私の魂がやどっています。紙切れには魂はありません。魂は、実在するのです。」
この話は、妙に記憶に残った。それ以来、名前ってなんだろうと考えることが何度かあった。
愛用の道具に名前をつけてみよう。名前で呼びながら、長年使っているうちに、愛着がわく。魂がこもる。生き物でなくても、捨てるのはしのびなくなる。
私は植物分類学という分野で、研究者としての道を歩み始めた。分類学では、生き物に名前をつける。名前をつけると、いとおしくなる。そこに魂がこもる。
名前を知らない生き物にはどうも愛着がわかない。しかし、たとえばナガサキシダ。私が中学時代に実家の裏山でみつけた、めずらしいシダである。その場所は造成され、思い出のナガサキシダは、いまはもうこの世に実在しない。
そのナガサキシダを、九大新キャンパスの造成予定地で、2株みつけた。もう2度とこのシダが消失するところを見たくない。そう思ったのが、九大新キャンパスでの生物多様性保全事業にのめりこむひとつのきっかけだった。
たかが名前、されど名前である。
もちろん魂は実在しないが、名前をしっかりと記憶したとき、私の頭の中には、魂が生まれる。覚えるという行為は、自分が関わりを持つ「魂」を増やしていくことかもしれない。

追記:「ダーウィン・ジュニア博士号」のダーウィンの似顔絵(私が訳した『植物の受精』の表紙の絵)は、文一総合出版のお許しを得て使わせていただきました。文一総合出版には、「博士号」のデザインについてもご協力をいただきました。ここに記してお礼をもうしあげます。