学部教育と大学院教育の比重

今日は、午前中は朝日新聞の取材に応対。ヤクシカが増加し、絶滅危惧植物が天然記念物(ヤクシカ)に食われている問題について、研究成果を聞かれた。取材には、誠実に応じたつもりである。
午後は、研究室セミナー。そのあと、ポスドクの論文原稿をレビュー。学位論文の内容を投稿論文にまとめたもの。赤字を入れる前に、全体の論理展開について、コメントをした。これも教育のうちだ。
さて、komakenさんの宿題に答えて帰ろう。
学部教育にせよ、大学院教育にせよ、知的関心を呼び覚ます(inspireする)要素と、基礎的な知識を習得させる要素がある。なお、ここでは大学院教育のうち、研究指導や論文指導ではなく、講義などのコースワークを考える。
前者の要素に比重を置けば、面白い話ができるので、学生の評判はとれる。授業評価で点数を稼ぐつもりなら、こちらの要素に比重を置けば良い。(話術・講義術の巧拙は別の問題)。
しかしながら、基礎知識がない学生には、奥の深い面白さは伝えきれない。たとえば、高校で生物を選択しなかったために、DNAとタンパク質の違いがわからないという学生には、プリオン発見の面白さはなかなか伝わらない。
そこで、奥の深い面白さを伝えるためには、本題に入る前に、基礎的な知識の講義に、かなりの比重を置く必要が生じる。しかし、そうすると、学習意欲の低い学生には、退屈な講義になる。
多くの教官は、これら2つの要素の間で、適当なバランスをとっていると思う。どの程度のバランスが最適かは、いちがいには言えない。私自身、毎年バランスを変えている。
さて、第一線の研究者が、どこまで講義に関わるべきだろうか。
私は、大学の講義の基本は、最先端の研究の面白さを伝えることにあると思う。そのゴールがあればこそ、基礎的な知識の講義も生きてくる。教科書としてできあがった体系を講義するだけでは、面白くない。好奇心をinspireする要素が、どうしても必要なのである。
基礎的な知識をどのように体系化して、最先端の研究の話題まで導くかは、教官の創意にかかっている。そのため、第一線の研究者が担当するほうが、より知的刺激にとんだ講義になると思う。
したがって、学部教育は、教官が責任を持つべきだと思う。
しかし、DNAとタンパク質の違いやセントラルドグマのように、本来高校できちんと学習すべき内容を、大学の教官が講義するのは、知的資源の浪費である。最近では、大学の教官が「補習」をすることを奨励する風潮があるが、私はかなり疑問を感じている。大学院生を非常勤講師に雇用する、放送大学教材を活用する、塾に外注する、関連企業に協力を仰ぐなど、いくらでも方法はあると思う。
今後の大学教育では、第一線の研究者が担当する部分と、そうでない部分の仕分けを行い、後者については別の体制を考えるべきだと思う。それにはお金がかかるが、必要性を訴えれば、道は開けると思う。
もうひとつ、大学教育において重要なのは、少人数ゼミである。卒業研究で講座に配属される前の1〜3年生に、少人数ゼミを受講させ、さまざまなテーマについて自分で調べ、発表し、討論し、レポートを書く経験を積ませるべきだ。
今のところ、このような少人数ゼミは必修ではない。したがって、教官も担当する義務はない。私は、過去5年間、少人数ゼミを自主的に開講し、通年で1年生を教えている。その経験から、大学生にとって、少人数ゼミがいかに重要な教育システムであるかを痛感している。
このような少人数ゼミを大学生全体に受講させるには、現状の大学教官数は、決定的に足りない。高度経済成長時代に、マスプロ教育を放置してきたつけが、今日の事態を招いている。
法人化後、予算の削減が続く中で、この状況を変えるのは、一見絶望的に見える。しかし、道はあると思う。