科学は豹変する(続)

相の島に到着。船の中で、本の後半(養老・和田対談)を読んだ。
私の予想に反して、対談の後半では、二人のやりとりは見事に噛み合っていた。
まずは、『顔』が大事だという点で意見が合う。
和田さんが、「東大で見られる顔は面白くない、人間味がない。それに較べて、上野の顔は生気にあふれている。驚くべきコントラストですね。」と切り出せば、養老さんが、次郎長の顔をとりあげて、「面構えにねえ、感動しました。なんかこうねえ、いろんな修羅場をくぐって、こうなるしかないという顔なんですよ。」と答え、和田さんが「なるほどわかるねえ!」と相槌をうつ。
次には、『雰囲気』が大事という点で意気投合する。
養老さんが、「隣の講座の教授がね、、、、一言。『勇将の下に弱卒なし』といみじくも言っていたのを覚えています。研究室に雰囲気がある。」と言えば、和田さんが、「昔のことですが、、、国立研究所と大学の研究所とでは、一般に大学の研究所のほうが評価が高いわけですよ。その原因はね、雰囲気が全然違うんです。国研と大学との。だから、人間にとって、雰囲気というのは本当に大事だと思いますねえ。」と返して、対談は熱気を帯びてくる。話は必然的に、時代批判へと向かう。

養老:その傾向(官僚性的傾向)は、僕が若い頃より強くなりましたね。終戦後の方が、一度、ぶっこわれたから、自由だった。
和田:そうです。昔の方が自由だった。
養老:そういう意味では、旧(戦争前)日本に戻っている。まあ、はっきりいうと、今の人、融通がきかない。
和田:そう、本当に融通がきかない。

この2人の話が噛み合うのだろうかと思っていたのだが、なるほど2人は、既成の枠組みにしばられるのが大嫌いな同世代人だった。その点では、心から意気投合できるのだな。私も、「今の人」ではあるが、彼らの意見に共感する。しかし、

養老:(敗戦を経験した)われわれは、普遍的というか、客観的というか、変わらないものは何かを考えたじゃないですか。それは「真理」だったんですよ。・・・いまの若い人には、真理を追究する気持ちがない。それは、なにも変わっていないからなんです。ひたすらある方向に動いていればいい。
和田:ただ、乗っていれば良い。時代の車に。

とまで言われると、あなたたちの世代でも多くの人は時代に流されたのではないか、その結果が教養部解体であり、大学院重点化であり、国立大学法人化ではないか、と申し上げたくなる。
少なくとも私の世代には、真剣に物事を考え、時代に棹差すあらがう多くの友人がいる。私より若い世代にも、チャレンジャーはいるのだ。
時流に流される傾向が、より強まっていることは、事実なのかもしれない。しかし、ではどうするか、という問いに対して、対談は明快な答えを出さずに終わっている。もちろん、唯一の正解などないのだが、最後が放談気味で終わってしまったのは、やはり残念である。