環境政策論

 ゴーシ舎長の昨日のコメントで、岡敏弘さんに『環境政策論』(1998:岩波書店)を献本していただきながら、書評も書かずに年月を重ねてしまった心の重荷が、さらに重くなった。そこで今日は、この本の紹介を書こう。
 岡さんとは、福井県中池見湿地が縁で知り合った。大阪ガスによる開発計画の対象となったこの湿地には、多数の絶滅危惧植物が生育している。この湿地の開発計画ついて、岡さんと松田裕之さんが「期待多様性損失指標による生態リスク評価とリスク便益分析」を実施されたとき、植物レッドデータブックの基礎となった数値データを使いたいという申し出があり、データを提供して研究に協力したことがある。その研究成果が、本書の第8章に紹介されている。
 その第8章には、維管束植物上位グループの系統樹が図示されている。経済学の本に、系統樹を登場させたのは、岡さんが始めてではないだろうか。
 経済学者の岡さんが、なぜ系統樹に興味を持ったか? その理由について、岡さんは次のように述べている。

 絶滅がなぜどうしても避けたいことになるのかは自明とみなすことも許されるかもしれないが、保全生態学は、それに根拠を与えようとしている。すなわち、現在の多様な種は、長い時間をかけた種分化の積み重ねの結果として生み出されたものであり、種分化は、数十万年から数百万年の時間がかかる。自然の遺伝子組み換えの試行錯誤のプロセスの結果である。したがって、「特有の遺伝子の組み合わせを持つ生物種を失うことは、無数の試行錯誤の末に獲得された情報の損失という点では、人類が数千万年の歴史を通じて蓄積した文化遺産をすべて失うことにも匹敵するほどの重大さ」(鷲谷・矢原 1996)と言えるのである。

 上記の文章が、経済学者の琴線にふれることになるとは、夢にも思わなかった。この考えは、系統学的な研究に多少とも関わったものとして、生物種の価値について考えをめぐらし、私なりにたどりついた一つの結論である。しかし、この考えを、系統樹の枝長による重みづけをした「期待多様性損失指標」に発展させる経済学者が現れるとは、想像もしなかった。
 本書を読むと、「期待多様性損失指標」は、経済学における費用便益分析(生態学者には、コスト・ベネフィット分析というほうがわかりやすいだろう)を、いかに生態系保全政策に適用するかについて、岡さんが考え抜いた結論であることがわかる。
 岡さんは、問題を定量的に解こうとする人である。しかも、その追求が、徹底している。定量的評価について徹底して考え抜く岡さんの姿勢は、自然科学者にはとてもわかりやすい。これからの社会科学の進むべき一つの道を指し示しているように思う。
 費用便益分析は、市場原理にもとづく政策決定において、常用される方法である。費用は受入補償額(WTA:willingness to accept)、便益は支払意思額(WTP:willingness to pay)で測られる。受入補償額とは、物を手放す際に最低限ほしいと思う金額であり、支払意思額とは、物に対して進んで支払ってよいと思う金額である。このような量による費用と便益の評価は、市場で取引される私的財に関しては、明快である。しかし、公共財、あるいは非市場財について、WTPを規定しようとすると、さまざまな問題が生じてくる。これらの問題をいかに解決するかを、岡さんは真剣に考えている。この問題を追及する過程で、「生態系の価値」を視野におさめ、「系統樹」にたどりついた岡さんの洞察力には、驚かされる。
 経済学者にここまで追求されてしまった以上、自然科学者としては、ある地域の、たとえば植物種すべての系統関係をDNA配列によって決定し、「期待多様性損失指標」を正確に計算してみせねばと思いながら、早くも5年が経過してしまった。屋久島で昨年から始めたプロジェクトでは、この宿題に決着をつけたいと考えている。分布調査の方法が確立でき、調査が軌道にのったので、3月からはDNAサンプルも集めている。ヤクシカの摂食の影響で、特定の種が滅んだ場合の「期待多様性損失」を、きちんと計算してみたい。
 このような「期待多様性損失指標」は、本書で書かれた論考の一つのエンドポイントであるが、本書ではより広範な問題が扱われており、どの論考にも定量的評価について徹底して考え抜く岡さんの迫力がみなぎっている。出版から5年が経過したが、まったく古さを感じさせない。多くの人に一読を勧めたい本である。
 最後に、章の構成を書き出しておこう。

第1章 環境問題と意見・利害の対立
第2章 リスク論
第3章 リスク便益分析
第4章 費用便益分析と確率的生命の価値
第5章 確率的生命の価値の測定
第6章 費用便益分析適用の実態
第7章 費用便益分析の倫理的基礎
第8章 自然生態系保全政策の評価
第9章 政策手段論

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