98%チンパンジー

毎日新聞朝刊から書評欄のページだけ破いて、カバンにつめて出勤。いま地下鉄駅構内で、電車待ち中である。海部宣男さんによる『98%チンパンジー』(ジョナサン・マークス著 青土社)の書評を読んで、早速注文することにした。ヒトゲノム配列決定後の、アメリカにおける人類遺伝学研究をめぐる動きをとりあげた力作のようだ。財界や政府の支援を受け、NSFの資金までついていた「ヒトゲノム多様性計画」が、倫理上の問題を指摘した科学者の批判によって中止に追い込まれたそうだ。
「ヒトゲノム多様性計画」とは、全地球の「純粋な」人間集団の遺伝子を収集する計画だという。全地球の生物多様性を記述しようという計画と、構想のうえではそっくりだ。しかし、人間の遺伝子を、昆虫や植物の遺伝子と同列に扱うわけにはいかない。倫理上の批判が出たのは、同然だと思う。
一方で、「ヒトゲノム多様性計画」を立案し、推進しようとした科学者もいたはずだ。激しい論争があったに違いない。『98%チンパンジー』を読めば、その顛末がある程度わかるのだろう。
著者のジョナサン・マークスによれば、「科学の発言には正確さと権威という二つのメッセージがこめられるが、両者は必ずしも現実には両立しない」。この点に関して、海部さんは、「これは本当だ」と同意したうえで、「権威はほぼ常に伴うが、正確さは時に『?』である。科学者の前に補助金の誘導とか名声がブラさがっている場合は、特に。」と述べている。金や名誉に発言が動かされることもあるだろうが、私はむしろ、科学者のナイーブさ(たとえば科学的命題と価値的命題の混同)から、不正確な発言がなされることが多いように思う。
たとえば、「遺伝子組み換えイネを使った食品が安全かどうか」という問題は科学的命題だが、「有機農業に力を入れている農家の畑の近くで遺伝子組み換えイネを栽培して良いかどうか」という問題は、価値的命題である。たとえ科学研究のための試験栽培であっても、栽培の是非は、「正しいか間違っているか」という問題ではない。あくまで、何らかの価値観にもとづいて、「良いか悪いか」を判断する問題である。しかし、この両者を正確に区別できる科学者は、少ないのが現状だ。
「現在の世代は研究対象に対する自分の責任や義務、そして説明責任について考えることも強いられている」というジョナサン・マークスの見解には、大賛成だ。逼迫した国家財政の中で、科学技術予算だけが増え、そして何よりも、科学研究とその成果が国民の日常生活にきわめて大きな影響を与えている今日、「私は好きなことをやりたいだけだよ」では、通らない。
とはいえ、植物採集が好きで研究者になった私のような基礎科学者にとっては、「好きなことをとことんやりたい」という好奇心・探究心は、研究を進めるうえでの、最大のエネルギー源である。このような純粋な好奇心・探究心に対する国民的な支持をひろげることも、忘れないでいたい。 おっと、貝塚駅まで来てしまった・・・(苦笑)。