夕凪の街・桜の国(1)(2)

三部作とはいえ、短編なので、すぐに読めた。しかし一度読んだだけでは、人物関係が把握できなかったので、人物関係を把握したうえで、もういちど読み返し、結局3回読んだ。
何よりも、「桜の国」の主人公、石川七波が魅力的だ。女の子だが、父親ゆずりの野球好きで、石川という姓に由来する「ゴエモン」というあだ名で呼ばれている元気者である。この元気な役に、映画では田中麗奈が挑む。なかなかの適役かもしれない。
その元気な七波の父親、石川旭が、定年後に「散歩」と称して家をあける。七波はこの「奇行」を心配して、17年ぶりにバッタリ出会った幼馴染の東子とともに、父親の尾行を開始し、東京から広島まで旅をすることになる。その尾行の過程で、父親と母親(被爆者)の出会い、プロポーズなどを「回想」し、この回想を通じて読者は七波とともに、父親旭の過去を追体験することになる。この構成は、うまい。そして回想は、「生まれる前、そうあの時私は ふたりを見ていた。そして確かにこのふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」というモノローグで終わる。モノローグの背景には、桜の花びらが舞う橋のうえで幸せそうにたたずむ、若かりし頃の旭と京花(母親)。美しいシーンだ。
その一方で、東子と旅をするうちに、七波は東子の彼氏が自分の弟の凪生だと知る。東子から借りた上着のポケットから、凪生が東子に送った、悲しい手紙を見つけてしまったのだ。凪生が研修医として過ごす病院に、東子は看護婦としてつとめていた。二人は愛し合っていたが、東子は両親から、凪生との結婚を反対されていた。その背景には、凪生が被爆者の家系であるという問題があった。凪生は東子を思い、別れを告げる手紙を書いたのだった。「東子さんのご両親だって おなじだけ東子さんを 大切に思ってこられた 筈ですよね だからその人達を裏切ったりする権利は 僕にあるとは思えない」。この凪生のメッセージは、3つの物語に流れるテーマと深く関わっている。そして七波と東子の旅は、東子が凪生と結婚する決意を確かなものにする旅となっていく。映画の東子役は、中越典子。「四日間の奇蹟」に続く名演を期待しよう。
「桜の国」のストーリーはとてもよく練られており、どのシーン、どの言葉にも、しっかりとした意味がある。絵は、スクリーントーンなどを使わない柔らかなタッチで描かれていて気持ちがよい。そして、七波の明るさがテーマの湿っぽさを吸い取っている。その結果、旅を通じて七波の心が重い過去を受け止めていくプロセスには爽やかさすら感じられる。物語には「桜の国」という明るいタイトルがつけられているが、「桜」は七波の心のメタフォアと言えるだろう。東京に戻った七波はこうつぶやく−「そうか 狭くなったと思ったのは 桜の木が大きくなったからだ」。
さて、説明を後回しにしたが、「桜の国」は3部作の第二部・第三部にあたる。第一部「夕凪の街」は、母親フジミとともに被爆した少女、皆実の物語である。広島での被爆という、重いテーマを扱った作品だが、「はだしのゲン」と違って、読みやすい。私は「はだしのゲン」に描かれている悲惨な事実に向き合い続けることができず、途中で投げ出してしまった者のひとりである。そういう経験を持つ人は、少なくないのではないだろうか。その私が3回読んで、ひきこまれたから、「はだしのゲン」にたじろいでしまった人にも勧められる作品だと思う。
作者は、広島出身だが、被爆者でも被爆者二世でもないそうだ。漫画家としての地位を確立したあとで、編集者に勧められてこのテーマに挑んだという。おそらく、取材に取材を重ね、被爆者の言葉を自分の言葉として語れるだけの準備を整えて、この作品にのぞんだものと思われる。その準備の周到さは、第一部「夕凪の街」の随所にかいまみえる。
時代は、広島原爆投下から10年後。「桜の国」よりもはるかに暗い時代が舞台である。被爆した姉は被爆から2ヶ月で世を去ったが、皆実は病気がちの母親を看病しながら、元気に暮らしている。皆実は七波そっくりだが、少し影がある。元気ではあるが、暮らしている現実を反映した不健康さも表情に宿している。映画では、麻生久美子がこの役をつとめる。これもまた、適役だと思う。
皆実は会社の同僚の打越と親しくなる。しかし、初めての接吻のさなかに原爆投下後の地獄のような光景を思い出して、打越の腕をふりはらってしまう。

わかっているのは「死ねばいい」と
誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ
そしていちばん怖いのは
あれ以来
本当にそう思われても仕方のない
人間に自分がなってしまったことに
自分で時々
気づいてしまう
ことだ

これだけの言葉を綴るために、作者がどれだけの準備をしたのかは、わからない。しかし、このような思いが被爆者の心をとらえていることを、作者はしっかりと受け止め、そして自分の言葉にして、私たちに語ってくれた。ありがたい。
悩んだ末に、皆実は打越に自分のつらい思いを話す決意をする。
「教えて下さい。うちはこの世におってもええんじゃと教えて下さい。十年前にあったことを話させてください・・・」
打越は、自分の叔母も原爆で命を落としたことを告げ、「生きとってくれてありがとうな」とやさしく皆実の手をとるのだった。
しかし、この直後から物語は悲しい結末へと向いはじめる。読者には、すぐに結末がわかってしまう。
打越との屈託のない会話が、切ない。やがて皆実は視力を失う。その後の物語は、白いコマに書かれた数行の文章でつむがれる。黒いコマではなく、白いコマであるところが、心憎い。ここはマンガならではの表現技法が生かされている。映画ではどう描くのだろう。
最後に、水戸の石川家に疎開していた弟の旭が伯母さんと一緒に見舞いにくる。皆実の最後のモノローグ。
「ああ 風・・・ 夕凪が終わったんかねえ」
夕凪は、死を前にした、ひとときの静けさのメタフォアだろう。そして物語は、「桜の国」へと受け継がれていく。
「桜の国」(1)の扉絵は、桜の木に登って二又の幹に体をゆだね、無垢な表情で遠くを見つめる七波。
場面は変わって、桜の花びらが舞う小学校。元気そうな小学生の七波が登場する。
※七波が学校から家に戻るシーンで、アパートの表札に、「石川旭・七波・凪生・平野フジミ」とある。旭は養子となって石川姓を名乗っており、皆実の母親のフジミは七波の少女時代まで生を長らえていたことがこの表札からわかる。しかし、最初に読んだときには、アパートの表札を読み飛ばしてしまったので、人物関係がすぐに理解できなかった。
「ただいまー」と挨拶してアパートに戻っても、誰もいない。
七波は学校の連絡帳に「おばあちゃんは弟と病院です。お父さんは会社です。わたしは野球の練習です」と書き、野球のユニフォームに着替えて、仏前で手をあわせる。
「では行ってきます。ゴエモンて呼ばれませんように」
よく読むと一つ一つのシーンに意味があり、ストーリーもコマも丁寧に描かれている。
あぁ、もういちど「桜の国」を読みたくなってしまった。
「桜の国」はすでに紹介したように、爽やかさすら感じられる物語である。その物語が続きとしてあるために、「夕凪の街」は現代の読者の胸を強くうつのだと思う。
映画「夕凪の街 桜の国」のメガフォンをとるのは、「半落ち」「四日間の奇蹟」の佐々部清監督なので、その出来映えにはかなり期待している。原作は短編なので、長い物語が削られてわかりにくくなる心配はない。しかし、マンガならではの、そして作者の絵ならではの表現には、映像化してしまうと陳腐に思えてしまいそうな面がある。そこをどう映画で扱うかが見所のひとつかもしれない。