ブログを公開する意味

メキシコから帰国して翌日に「生態学I」の授業をした。その次の回の授業を今朝やったということは、1週間がたったわけだ。しかし、昨夜も午前2時すぎに目がさめた。まだ時差ぼけが完治しない。今回は、長い。
授業後は講演の準備。25日に農学部助教授講師会で、「環境科学における合意形成:生物多様性と遺伝子組み換作物を題材に」と題して話す。3部構成のパワーポイントを用意したところ、スライド枚数が90枚をこえた。ほぼ90分の講演に相当する。少し長いかとも思うが、せっかくの機会なので、長めに話をさせていただこう。
さて、このブログを書き始めてから、203日が経過した。ホームページにウェブ日記を書いていたときと比べると、ブログでは、どうしても「読者」を意識してしまう。もともとは、自分のための日記だったのだが、いつの間にか、意見を発信したり、コメントに答えたりするようになった。
大学の教官が、日々どのようなことを考え、どのような生活をしているかを、ありのままに書くことで、大学の教官への金太郎飴的なイメージを変えたいという気持ちも、多少はあった。
しかし、一方で日記的な性格もあるので、つい気軽に書いてしまい、あとでしまったと思うこともある。
私にウェブ日記を書くように薦めたTさんは、「ちょっとでも迷いがあるときは,書いてすぐにサーバに転送しない」のだそうだ。公開のブログで情報を発信する以上、そのくらいの慎重さが求められるのかもしれない。
「理系白書」の元村さんが「男社会で働く」(11月19日)というブログを書き、猛烈な批判をあびた。その結果、「疲れました」(11月20日)と書き、さらに批判をあびている。
本人としては率直な感想を、気軽に書かれたのだろうが、状況はかなり深刻だと思う。いかに経験を積んだ記者とはいえ、その経験は限られているはずだ。限られた経験に依拠した考えは「主観」である。そのような主観をもとに、社会全体のあり方にコメントし、「男性にも『今の社会であなたたち幸せですか?』と問いかけたい」とまで言ってしまったのは、軽率だったと思う。
私は、素直に過ちを認められない元村さんの態度に疑問を感じはするが、しかし、元村さんに対する批判の熾烈さにも、たじろぐ。
「発生練習」さんは、「コメントを寄せている人のうち少なくない人が理系白書の著者である元村さんに完璧さを求めている」ことに、もやもやしたものを感じると書かれている。また、「間違いを正すのを許さず、間違った時点で死刑宣告を下すという風潮も、専門家の発言を殺します」とも。後者に関しては、全面的に賛同する。しかし、前者に関しては、共感はするが、元村さんが自ら間違いを正されれば、ここまで紛糾しなかったとも思う。
これはしかし、他人事ではない。
記者であれ、大学教官であれ、専門性を持つ者の発言は、たとえブログであれ、プライベートな発言ではすまないと思う。しんどいことだが、公開のブログで発言する以上、責任がともなう。
どうしてこのような責任を背負ってまで、私はブログを書いているのだろう。もうやめようかと考えてもみた。しかし、ブログをやめても、他の場所で、軽率な発言をしてしまうかもしれない。自分の発言に対するチェック機構としては、ブログに明白な効用があるように思う。