報道のあり方(続)

今日は空を2回飛び、研究室に戻ったところ。宮崎での会議の直前に、元村さんからのコメントを見て、短い返信を書いた。今夜中に片付けねばならない仕事がいろいろあるが、元村さんの質問に答えていないのが気がかりなので、ブログを書いてしまおう。まず、質問を再録。

この場合の「ネット」というのはどういう発信者を想定されていますか?文脈から言えば、新聞がネットで速報するというのは含まれていませんね。では当局あるいは当事者、という意味ですか。その場合、「正確さ」とか「客観性」は誰が保証するのでしょう。やっぱり第三者の目が必要で、そうなると何らかのメディアが介在することになり、正確さや客観性を100%追求することが難しくなってしまいます。

私の言う「ネット」は、インターネット上でのすべての情報源を含む。すでに現在でも、「ネット」は私にとって、貴重な情報源である。何しろ、迅速かつ強力な検索機能があることが強みだ。2月9日に『独り言』さんから「沖縄周辺が世界でも特に環境保護の遅れてる地域34に選ばれたとききました」という書き込みがあったとき、正確な情報が知りたくて、「34」と「conservation」で検索をかけたら、すぐに情報源が特定できた。「モンサントポリス」(2月26日)についても、Schmeiser裁判の記録という、双方の主張が客観的に比べられる情報源が見つかった。
また、ハイパーリンクでいもづる式に情報がたどれるのも、「ネット」の強みだ。科学論文に関しては、scolor.google の威力は絶大である。英語さえ使えれば、あるテーマについての研究の現状を短時間で一望できる。たとえば花の匂いの分子生物学的研究についての情報が知りたければ、「floral scent」で検索してみれば良い。"Biochemical and Molecular Genetic Aspects of Floral Scents"という総説がヒットした。scholar.googleを使えば、この総説を引用している文献がいもづる式に調べられる。
いろいろな人のブログも結構役にたつ。毎日新聞発信箱の「疑惑」と題するコラムは、一読して後味が悪かった。理系白書ブログ3月10日のコメントで、sasayamaさんが、コラムでとりあげられいた「新華網」の記事「2005年“兩會”精彩圖集−美麗記者篇」のアドレスを紹介されていた。コラムともとの記事を相互参照することで、「記者のフィルター」がよくわかった。
私の場合、現状ですでに、情報源としては、「ネット」が主、新聞は従である。ちなみに、テレビはめったに見ない。もちろん、本は読む。
それでも新聞は3紙読んでいる。新聞の効用は、食事をしながら読めることだ。もっとも、私のブログなどを読みながら昼飯を食べている奇特な人もいるようだ。食事のときには新聞、という私が古いのかもしれない。
新聞を読むもうひとつの理由は、何といってもその影響力である。どの新聞がどの記事をどのようにとりあげているかを知っておくことは、社会的な問題について自分なりに判断を下すうえで、重要な手がかりになる。
私が新聞に「情報の正確さ」と「記者のフィルター」(この表現は元村さんのものを借りた)を区別してほしいと願うのは、不正確な情報が大きな影響力を持ったとき、社会は混乱するからである。私は、新聞記事を正確な情報だとは思っていないので、必要に応じて、「ネット」や本を調べて、うらづけをとる。しかし、みんながこのような手間をかけるわけではない。
新聞は、世論を左右する力を持っている。その力は、適切に使われる必要がある。その「適切性」の規範として、私は「情報の正確さ」を求めたい。
「人間の手がかかっている以上、”バイアスがかかる”ことは避けられない」(3月10日理系白書ブログでの「名無し」さんのコメント)という意見があるが、「バイアス」の問題と、「正確さ」の問題は、区別すべきである。確かに、”バイアスがかかる”ことは避けられない。しかし、書かれたことは、正確である必要がある。そして、「事実」と「記者の意見・判断」を区別する必要がある。両者が渾然一体となった文章では、読者はどこまでが事実かを判断しにくい。そのような記事で、世論が動くことは、好ましくないと思うのだ。
もちろん、読者の側にも責任はある。この点で、「理系白書ブログ」のような、読者と記者のコミニュケーションには、大いに期待している。ネット上での意見交換を通じて、読者も新聞も変わっていくのではないかという予感がする。
なお、「正確さ」や「客観性」は誰かが保証すれば済むという問題ではない。記者も読者も「正確さ」や「客観性」を追求すべきである。社会に流れる情報の「正確さ」や「客観性」は、みんなのサポートがあってはじめて保証されるのだと思う。