リーダーの条件

kab-logさん、ことS舎長が、「リーダーの条件」というタイトルでブログを連載されており、最新の記事は9回目である。これにコメントしたために、私のブログでリーダーについての見解を披露せざるを得なくなった。
まず、これまでにS舎長に私が書き送ったコメントを再録しておく。
S舎長は、リーダーの3条件として、コミニュケーション力、マネージメント力、イメージ力をあげた。これに対し、私が考える3条件について、次のように答えた。

『存在力、組閣力、勝負力。
存在力というのは、チームの内外に存在感を示すことができる力。これが備わっていないと、いかにイメージが豊かで、コミュニケーションとマネージメントにたけていても、チームを動かす大きな仕事はできないでしょう。良し悪しは別として、コイズミやゴーンには圧倒的な存在力があります。
舎長があげた3条件を含め、組織を動かすにはさまざまなスキルが必要です。一人ですべてをカバーすることは不可能。だとすれば、自分の長所短所をよく知った上で、的確なチーム編成ができるかどうか、しかも、腹心や参謀と呼べるだけの、全幅の信頼が置けるパートナーを得ることができるかどうか、そこが大きなポイントでしょう。
最後は、結果を出す力ですが、いわゆる「問題解決能力」だけでは不足でしょう。その点だけなら、「組閣」でカバーできる。大局観をもち、出るべきときは出る、退くべきときは退く、耐えるべきときは、じっと耐える。この判断は、リーダーがしなければなりません。』 (2006/06/08 13:51)

このコメントに対し、Mich-Katzさんから、存在力とはカリスマ性のようなものか、それはどのようにすれば身につくのか、という質問があった。これに応じて、S舎長は、リーダーの条件とは誰もが身につけられるものでなければならないと述べた。これを受けての私のコメントは以下のとおり。

『存在力・存在感とカリスマ性は違います。カリスマ性は神秘的な能力であり、一般的には、組織のリーダーが必要としないものです。むしろそれは、有害とすら言えるでしょう。「教祖」になるためには必要かもしれませんが、リーダーは「教祖」であってはいけないと思います。
存在力は誰しも訓練によって、ある程度は身につけることができるものです。いや、身につけなければなりません。組織の中で、存在感を示せない人は、人の上に立つべきではない。部下がかわいそうですよ。』 (2006/06/09 07:58)

これに対して、S舎長から、存在力の「方向性」には良し悪しがあり、ホリエモンだって存在感はあるので、存在力の内容や方向性をもう少し聞きたい、という質問があった。これに対する私の答えは以下のとおり。

『リーダーにとって必要な資質と、価値観の問題は区別すべきです。良いリーダーか悪いリーダーかの評価は、価値観によって変わります。コイズミ首相は、私の価値観では悪いリーダーです。しかし、良いリーダーだと考えている人もいるでしょう。
「リーダーの条件」として、私は、チームを統率するうえで必要な客観的資質を考えました。
バイタリティがあっても、周囲のことを考えない人は、リーダーには推されないので、バイタリティはリーダーの条件とは言えないと思います。
私の言う存在力とは、チームのメンバーから信頼されて、リーダーに推される力です。「どういうリーダーになら、ついて行こうという気持ちになれるか」を考えてみれば、「存在力」の内容が理解できるのでは?』 (2006/06/10 20:18)

私の考えは、これらのコメントでおよそ言い尽くしてはいるのだが、非常に重要だと思うポイントをまだ述べていない。この点について述べれば、私の考えをもっとよく理解してもらえるだろう。
そのポイントとは、

リーダーであろうとするな。チームを支える力を発揮しよう。

ということである。
圧倒的に多くのリーダーは、より大きな組織のメンバーである。つまり、誰かの部下である。したがって、リーダーとしての能力だけでなく、部下としての能力を発揮する必要がある。この点を忘れ、リーダーの条件だけを考え、追求しても、組織はうまく動かないし、本人もハッピーになれないだろう。
私の言う存在力とは、リーダーとしての力であると同時に、メンバーとしての力である。言い換えればそれは、信頼できる上司・同僚・友人を見つけ、その人を支える力である。組織の中で、自分の存在がどういう価値を持つかをよく考え、自分の個性を発見し、自分ならではの方法で上司・同僚・友人を支え、チームの成功に貢献すること、これが私の言う存在力である。
存在力は、総合的な力なので、それを身につけるためには、それぞれの人が工夫する必要がある。言い換えれば、万人に共通する答えはない。ひとそれぞれ、能力も個性も違うから、これは当たり前のことである。しかし、S舎長は、万人に共通する答えを探そうとしているようだ。その問いに対しては、「存在力」という概念で答える以外にないと思う。
コミニュケーション力、マネージメント力、イメージ力。たしかにこれらは、重要な能力ではある。しかし、では口下手で、人を使うことが苦手で、イメージよりも理屈が先に立つ人は、チームにとって役に立たないかというと、必ずしもそうではない。その人なりの方法で、チームの成功に貢献する道があるはずだ。常にチームのことを考えて努力し、経験を積めば、リーダーにもなれるはずだ。
実際に研究室での私は、かなり放任主義であり、チームのメンバーに私のメッセージをきちんと伝えていないことが多いし、他人に物事を頼むのが嫌いで何でも自分でこなそうとするのでマネージメントに失敗することが多いし、イメージよりは理屈が百倍好きなので、イメージを描けと言われても描けない。
しかし、私は私なりのやり方で、チームの成功に貢献すべく、努力している。
そもそも、組織やチームというのは、リーダーだけで成り立っているわけではない。
S舎長は、6月13日のブログで、堀紘一著『リーダーシップの本質』(ISBN:4478360529)の見解を紹介している。その見解に、一理はある。しかし、堀氏の提言は、すべての責任をリーダーに負わせてはいないか。
リーダーだけがビジョンや戦略を考え、あとのメンバーはただついていけば良いのだろうか?
リーダーだけが組織を決め、人事を行い、あとのメンバーはただそれに従えば良いのだろうか?
リーダーだけで、組織の文化が作れるのだろうか?
私には大いに疑問である。
ひとりひとりが、チームの一員として、自分の責任を果たすべきではないだろうか。
ひとりひとりが、自分の長所短所をよく考えて、自分がもっとも貢献できる方法で、チームのためにはたらくべきではないのだろうか。
チームが失敗したとき、リーダーはもちろんその責任を負わなければならない。失敗の責任を部下に転嫁するリーダーほど情けないものはない。しかし、実際には、チームの失敗の主要な原因は、メンバーにあることが多い。
日本のWC初戦敗北で、はやくも監督の責任追及が始まった。ジーコ監督は、チームのメンバーに信頼されている。良いチームを育てたと思う。しかし、試合が始まってしまえば、監督にできることはわずかである。勝敗を決めたのは、選手である。そのことは、当事者の選手たちが痛切に感じていることだろう。次の試合に期待しよう。
理想的なリーダーの条件を議論することは、ある意味で、気楽である。そんなリーダーがいてくれたらなぁ、という夢を見ていられる。しかし、多くの場合、それは甘えである。
リーダーに責任を転嫁する前に、自分がチームのために何ができて、何をすべきかをよく考えてみよう。そのように考えて行動できるメンバーがたくさんいるチームほど、強い。そのような意味で強いチームには、自然にリーダーが生まれる。みんなが全体を考えて行動すれば、誰がチームを率いるにふさわしいかは、おのずと明らかになるものである。
一方で、自分のことしか考えないメンバーが多いチームは、弱い。このようなチームからは、良いリーダーがなかなか生まれない。
「リーダー教育」の重要性を指摘する人が多いが、私は、個人の責任をきちんと教育することのほうが重要だと思う。自分の存在には、自分で責任を持つ必要がある。自分の存在力を高めようと努力せずに、自分の価値を上司が認めてくれないと嘆くのは、むなしい。もちろん、ダメな上司はいるだろう。それならば、自分にとって信頼のおける同僚を探し、支えよう。
私の理想は、リーダーとしてはたらくよりも、全幅の信頼がおける人物を支える片腕になることである。幸い私は、この人に頼まれたときには、全身全霊を傾けて、その依頼に応えたいと思える人物を数人知っている。このような知人から、私は多くのチャンスを与えられた。ありがたいことである。