西欧的自然観と日本的自然観

1月7日に環境省「次期生物多様性国家戦略研究会」第一回が開催され、「2050年の自然との共生の実現(案)」に関する議論が行われるそうです。

この研究会に先立ち、GFBさんは「里山ナショナリズムの源流を追う 21世紀環境立国戦略特別部会資料から」を公表し、「日本人は昔から自然と共生してきた」という、これまでの政府の環境政策文書に繰り返し書かれてきた見方に疑問を提起されています。

 

私は、湯本貴和さんを代表とする総合地球環境研究所プロジェクト「日本列島における人間ー自然相互関係の歴史的・文化的検討」(2006-2010年度)に参加し、「日本列島では生物資源の持続的利用も、その破綻もあった」ことを明らかにする研究に貢献しました。湯本プロジェクトの成果として刊行された『シリーズ日本列島の三万五千年史』の第一巻に書いた以下の論考は、次期生物多様性国家戦略研究会の委員の方々にぜひ読んでいただきたいので、5節「西欧的自然観と日本的自然観の違いとその意義」をここに転載します。

矢原徹一(2011)人類五万年の環境利用史と自然共生社会への教訓 湯本貴和・松田裕之・矢原徹一(編)『環境史とは何か(シリーズ日本列島の三万五千年史ー人と自然の環境史1)』pp. 75-104 より抜粋

5 西欧的自然観と日本的自然観の違いとその意義

 産業革命以後の近代世界ではさまざまな環境問題が顕在化した。このような環境問題の背景に西欧的自然観があるとしばしば指摘されている。この見解においては、日本的(あるいはアジア的)自然観をより環境調和的なものとみなすことが多い。確かに日本社会には自然との共生を尊ぶ伝統的自然観があり「自然共生社会」という日本政府の目標設定は伝統的自然観に立脚している。最後にこのような伝統的自然観が自然保護に果たす役割について考えてみたい。

 まず西欧的自然観と日本的自然観がどのように異なり、そしてその違いがいつ頃なぜ生じたかについて考えてみよう。私は哲学や社会科学の専門家ではないので、哲学者や社会科学者によって書かれたいつかの文献を参照しながら考察を進めることにする。以下に紹介する文献は、経済学者の中谷による著作、政策科学者の深谷・桝田による論文、および西欧的自然観とアメリカ先住民の伝統知に関するピエロッティとワイルドキャットの英文総説である。

 西欧的自然観について、経済学者の中谷は以下のように述べている。「自然を管理し、飼い慣らし、征服することが神から人間に与えられた使命であると考えるのがキリスト教であり、こうした思想を『スチュワードシップstewardship』と言うが、こうした自然観があったからこそ近代西欧社会は世界の覇者となりえたと言っても過言ではない。なぜか。それは自然への恐怖心がなかったからこそ、自然を客観的に、科学的に分析することが可能になり、近代科学革命が起こったという事情があるからである」。

 深谷・桝田によれば、このような西欧的自然観が成立したのは中世であり、西欧社会でもギリシャ・ローマ時代の自然観には、創造主と被創造物の区別はなく、神・自然・人間の一体性が見られた。たとえばアリストテレスは自然を「自分自身のうちに運動の原即をもつもの」と述べているが、ここでの自然とは人間と対峙するような存在ではなく、むしろ人間は自然の一部であると考えられていたという。その後17世紀前後の中世キリスト教社会において、人間は神のために存在し、自然は人間のために存在するという思想が生まれた。デカルトやフランシス・ベイコンはこの思想の推進者であり、デカルトは自然と人間を分離する二元論を唱え、フランシス・ベイコンは自然は神から人間に贈与されたものであり、自然を支配するのは人類の権利であると主張した。「こうした機械論的自然観や自然支配の思想こそが近代文明の根幹を支えてきたといっても過言ではないだろうと深谷・桝叫は述べている。

 一方、ピエロッティとワイルドキャットは、西欧社会の自然観には二つの異なる思想があると指摘している。ひとつは利用主義(extractive approach)であり、自然は経済的価値を持つものと考える。これは、今日の「賢明な利用」につながる考え方である。もうひとつは保護主義(conservationist approach)であり、自然は人間の干渉から守られなければならないという考えである。これは、合衆国の原生自然保護法(US Wilderness Act)を支えている考えだという。このように、二つの異なるアプローチを区別したうえで、「見かけ上はさまざまだが、西欧の自然観には、西欧哲学のルーツに由来する共通性がある。アリストテレスであれ、デカルトであれ、カントであれ、人間は自然から自立し、自然をコントロールするものと見なしている」と述べている。

 アリストテレスの自然観に関する評価は、深谷・桝田とピエロッティ・ワイルドキャットで異なっている。どちらの評価が妥当かを正確に判断するだけの知識は私にはない。ただし、「nature」の語源にあたるラテン語の「natura」は,人間・自然を問わず、生まれたままのものを指す言葉だった。これと対をなす「cultura(cultureの語源)」は、「natura」を耕したものを意味し、やはり人間・自然を糾わずに使われた(人間に対して用いられた場合、「cultura」は誕生後に学ぶものを指す)。現在でも英語の「nature」「culture」には、「自然」「耕作」という意味に加えて、「性質」「文化」という意味がある。ラテン語の「natura」、「cultura」の用法は、キリスト教以前の西欧世界において、自然と人問がより一体のものとしてとらえられていたことを示唆している。

 「人間は自然から自立し、白然をコントロールするもの」という西欧的自然観はおそらくアリストテレスの時代からその萌芽があったが、創造主と被創造物を明確に区別するキリスト教の世界観がそれを強化したのだろう。そして、デカルトやフランシス・ベイコンがこの自然観にもとづく思想・哲学を発展させ、今日に至る西欧的自然観を確立したと考えられる。
 このような西欧的自然観は、「自然を支配するのは人類の権利である」という自然支配の思想だけでなく「自然を保護するのは人間の責務である」という自然保護の思想を発展させる礎にもなった。「スチュワードシップ」(受託責任)という考え方を背景として、今日の自然保護政策につながる2つのアプローチ(利用主義と保護主義)が発展したのである。
 一方の日本的自然観について、深谷・桝田はそのルーツは中国にあると指摘している。 日本語の「自然」という言葉は中国語が移入されたものであり、もともとは「自分のままの状態」を意味した。自然界の森羅万象は、「自然」 (ツーラン) ではなく、「天地」 や「万物」 とよばれた。日本で最初に「自然」という言葉が使われた『風土記』(紀元前八世紀頃) でも、「自然に」が「おのずからに」と訓じられており、やはり状態を指す表現だった。その後仏教が伝来すると、「自然」は「おのずから」だけではなく「じねん」や「しぜん」と読まれるようになり、あるがままの状態をよしとする思想 (親鸞の「自然法爾」など)に結びついた。その後、江戸期に至って、安藤昌益が森羅万象を意味する名詞(「nature」にかなり近い意味)としてはじめて「自然」を用い、独自の自然哲学を発展させた。「nature」の訳語として「自然」 が用いられたのは、蘭日辞書『波留麻和解』(1796年)が最初であるという。

 このように、「自然」という言葉はもともと対象世界ではなくあるがままの状態をあらわすものであり、この言葉を「nature」の訳語として用いた背景には、あるがままの状態をよしとする東洋思想があった。この点で、日本的自然観は西欧的自然観とは確かに異なるものだと据えられる。このような日本的自然観について考察した寺田は「日本人は、人と自然は合わせて一つの有機体であるという自然観を有しており、このような自然観があるからこそ自然科学の発展が遅れた」と述べている。しかし、寺田に代表されるこれまでの議論は、定量的な分析にもとづ-くのではなかった。
 深谷・桝田は、言葉の使い方に関する定量的分析手法(スクリプト分析法)を用いて、現代日本人の自然観を調査した。すなわち、新聞の投書欄から「自然」を含む投書のテキストデータを集め、その用法を集計した。その結果、以下のような傾向が浮かびあがった。
(1)「自然は/が〜」の後には、「ある」「残る」といった存在表現が使われる場合が多い。これに次ぐ頻度で、「失われる」「壊される」などの受動系表現、「消える」「戻らない」などの自動詞表現が、いずれも否定的な文脈で使われている。
(2)「自然を〜」の後には、「愛する」「守る」などの愛護・保護行為をあらわす表現が使われることが多い。次いで「破壊する」などの破壊行為をあらわす表現が使われる。
(3)「自然に〜」の後には、「囲まれる」などの受動系、「対する」などの対面系、「親しむ」などの情動系の表現が多い。
(4)「自然で〜」という用法は見られない。
自然を主語とする表現では、「ある」「残る」といった存在表現が多いことから、現代日本人が自然を自律的存在と見なしていることがわかる。自然を動作の対象とした場合、「自然を愛する」「自然に囲まれる」など、自然に対してそのままの状態で接する表現が多い。「自然を破壊する」などの改変行為をあらわす表現は、どれも否定的な文脈で語られていた。また第四の点から、日本人は「自然」を動作が行われる具体的場所として表現しないことがわかる。この点は、〝in nature″という表現を常用する英語とは対照的だ。

 このような分析にもとづいて、深谷・桝田は現代日本人の自然観について、「自然を自律性を持つべきものととらえ、また一体感を感じている一方で、我々は自然を対象化・客体視している」と結論している。自然を対象化・客体視することは、自然を利用するうえでは不可欠であり、『農業全書』に代表される江戸農学発展の背景にもこのような態度があった。寺田の主張は、日本的自然観の一側面を強調しすぎているように思う。

 日本的自然館については、深谷・桝叫とは違った視点からの議論もある。中谷は日本的自然観が「本地垂迹説」(神道と仏教の融合を正当化した考え)によって確立されたと見なし、以下のように主張している。「この神仏を融合する日本独自の思想によって、日本人が古代から抱いてきた素朴な自然崇拝が本格的に日本文化の根本に位置するようになった。なぜならば、日本は神国であると同時に仏国土であるがゆえに、日本では道ばたに生えている名もなき草にさえ神性があり、仏性があると信じられるようになった。それはまさに『山川草木悉皆仏性』あるいは『草木国土悉皆成仏』という言葉で表現されている。だから、森を人間の都合で伐採したりすることは罰当たりなことだとされた。森に暮らす鳥の鳴き声、虫の音は、そのまま人間の成仏を祈るお経であると信じられた」。ただし、このような自然観だけで自然が守られたわけではなく、「日本人もまた生活の必要上、樹を切り倒していたわけであるが、そうやって樹を伐った後を放置するのではなく、ちゃんと植林をして地域共有の 『里山』として維持していかねばならないというルールを持っていた。なぜなら、稲作を行ううえで、保水機能のある里山を持つことが不可欠だったからである」とも述べている。中谷の議論は、もともとは安田や梅原によって主張されたものである。中谷は(安田著)『蛇と十字架』を引用し、「キリスト教のような一神教が世界に普及したことで、人間と自然の関係が根本的に変わったことをさまざまな実例を通じて立証している」と述べている。梅原は天台仏教の『草木国土悉皆仏性』という思想は日本仏教独日のものであり、人間中心主義の西欧近代思想とは異なり、自然中心の世界観だと主張した。

 さて、このような日本的自然観は、はたして日本独自のものだろうか。ピエロッティとワイルドキャッツは、アメリカ先住民の伝統的生態知(traditional ecological knowledge)について検討し、それが「人間は自然とつながっており、人間から独立した自然などないと考える」自然観に立脚していると指摘した。言うまでもなく、この自然観は「日本的自然観」と通じるものである。アフリカの伝統的社会にも、類似の自然観がある。おそらく、人間と自然を一体のものと見なす考えは、約5.2万年前にアフリカを出て世界に広がった旧石器時代のヒト社会に由来する、世界共通の祖先的思想である。中世キリスト教社会においてこの考えが大きく修正され、自然と人間を分離する二元論が確立された。ただし、自然を対象化し、客体視する考えは、現代日本人にも広く見られる。そのルーツは、主要には明治期における西欧思想や西欧近代科学の導入にあるが、江戸時代において発展した日本独自の農学においても、自然を対象化し、客体視する考え方が採用されている。

 中谷は市場万能主義的な考え方の背景に西欧的自然観・価値観があり、資本主義が直面している課題を克服するうえでは、自然と人間の共生を前提とする日本的自然観・価値観を大切にする必要があると主張している。このように、現代社会の諸課題の原因を西欧的自然観・価値観に求め、それに対置する形で日本的自然観の意義を重視する考えは、安田や梅原の主張にも見られる。しかし、果たして日本的自然観は、日本の自然環境を守るうえで重要な役割を果たしてきたと言えるだろうか。

 ダイアモンドは、日本の農耕社会が長期間持続した理由を考察し、森林の再生が速いという自然条件の強みに加えて、ヤギやヒツジなどの草食動物による摂食圧が小さかったこと、豊富な魚介類が利用できたためにタンパク質・肥料供給源としての森林利用圧が小さかったこと、政治的に安定した徳川幕府の下で長期的な見返りを期待できる状況があったことを、持続可能性の主要な理由にあげている。そして、「江戸時代中・後期の日本の成功を解釈する際にありがちな答え、日本人らしい自然への愛、仏教徒としての生命の尊重、あるいは儒教的な価値観は早々に退けていいだろう」と述べている。このように日本的自然観の価値を否定されるのは心地よくはないが、「これらの単純な言葉は、日本人の意識に内在する複雑な現実を正確に表していないうえに、江戸時代初期の日本が国の資源を枯渇させるのを防いではくれなかったし、現代の日本が海洋及び他国の資源を枯渇させつつあるのを防いでもくれないのだ」という指摘は重要である。

 ダイアモンドや白水が指摘しているように、戦国時代や江戸時代初期には、日本の森林はかなり荒廃した。今も昔も戦争は巨大な環境破壊であり、戦国時代に繰り返された戦の下では、日本的自然観は環境破壊を防ぐうえで無力だったと言ってよいだろう。また、江戸時代初期には、まだ長期的視野で森林を育てる技術が発展していなかった。この時代の経験から学び、育林・管理技術を発展させたことが、江戸時代の森林を持続させた重要な要因だと考えられる。宮崎安貞が『農業全書』において、持続可能な森林利用を支える育林技術を記述したことは、すでに述べたとおりである。なお、『農業全書』は百姓(農民)への技術指南書としで編集されたものである。江戸中期に、農民の一部が『農業全書』を読み、長期的判断を可能にする知識を身につけていたことは、注目に値する。このような知識は、農民が環境保全に対する意思決定を行ううえで、役立っただろう。

 日本的自然観と西欧的自然観を対置する主張においては、自然保護における自然観の役割を過大評価するとともに、両者の共通性や補完性を過小評価しているように思われる。自然と人間を一体のものと見なす自然観は、おそらく旧石器時代以来の伝統社会に共通するものである。ラテン語の「natura」と中国語の「自然 (ツーラン)」 とは確かに異なるが、「生まれたまま」という考えと「自分のまま」という考えには、相通じるものがある。中世キリスト教社会において確立された西欧的自然観の下でも、自然は開発されるだけでなく、保護もされた。今日の自然保護政策につながる二つのアプローチを発展させたのは、西欧社会だった。利用主義と保護主義という二つのアプローチは、もともとは自然と人間の二元論に立脚しているが、両方を統一的にとらえる考えは西欧社会において広く支持されつつある。ピエロッティとワイルドキャッツは、アメリカ先住民の伝統知について、利用主義と保護主義の両方の要素を持つ第三の選択肢だと指摘し、その価値を高く評価している。

 「スチュワードシップ」 (受託責任) と「自然共生」は、持続可能な自然利用を追求するうえで、ともに有効な据え方である。私たちは、日本的自然観と西欧的自然観を対立的にとらえるのではなく、両者の補完性に注目すべきだろう。そしてこのような自然観を現実に生かすうえでは、長期的判断を可能にする科学的知識が欠かせない。たとえば徳川幕府が長期的視野で森林を管理できた背景には、江戸農学の発展があったのである。

「里山ナショナリズムの源流を追う」へのコメント

GFBさんの力作「里山ナショナリズムの源流を追う 21世紀環境立国戦略特別部会資料から」がnoteに公表されました。

https://note.com/gfb/n/n480031b828bc

この記事を読んでまず気づかされたのは、私が政府の政策にコミットする機会はまったくなかったこと。私は鷲谷さんと共著で「保全生態学入門」を書き、環境省レッドリスト作成に深く関わり、CBD COP10に向けて環境省に協力してプレ国際会議を開催したり、愛知目標策定に向けての科学外交に関わってきました。渡辺綱男さんとも何度もお目にかかっています。鷲谷さんが委員で加わっているから、分野のバランスを考慮して、私は委員からはずされた、ということかもしれません。鷲谷さんが、政策と関わる「汚れ役」は自分が引き受け、私には研究面で頑張ってもらおうと配慮されたのかもしれません。また、私は鷲谷さんより一回り若いので、年齢的な理由でいろいろな委員からはずれたのかもしれません。ともあれ、見事に政策決定ラインからはずれてきたことを、強く自覚させられた記事でした。

GFBさんのnoteの記事では、湯本貴和さんがリーダーをつとめられた総合地球環境学研究所のプロジェクト「日本列島における人間ー自然相互関係の歴史的・文化的検討」(2005~2011年)との関係で、何度か私の名前が登場します。このプロジェクトで私は、松田裕之さんとともに、アドバイザー的な役割を担いました。GFBさんはこのプロジェクトを、<「賢明な利用」が本当に行われてきたのか、すなわち「日本人は自然と共生してきたか」について、批判的に検証したプロジェクト>だと紹介されています。この紹介は的確です。日本人の自然観や過去の所業を根拠なく美化する考えを事実にもとづいて批判的に検証しようという方向性は、湯本さん、松田さんと私の共通認識でした。ただし、<プロジェクト全体として梅原・安田らの「森の思想」の打破をひとつの目的としていたことが伺える>という理解は事実とは異なります。5年間のプロジェクトを通じて、梅原・安田らの「森の思想」が議論されたことは一度もないと記憶しています。湯本プロジェクトでは、思想を議論したことはほぼありません。

自然再生事業指針(松田・矢原ら2005)に書いた以下の文章が、私と松田さんの共通認識であり、湯本さんもこの点を了解されていたはずです。

自然再生に関連する諸問題の中には、科学的(客観的)に真偽が検証できる命題と、ある価値観に基づく判断が混在していることに注意すべきである。生物多様性が急速に失われていると言う現象は客観的に証明できる命題である。一方、自然と人間の関係を持続可能な関係に維持すべきであるという判断は特定の価値観に基づいており、客観的命題ではない。このような、持続可能性を目指すという価値観を前提として、その目的を達成するための方途や理念を客観的に追究する科学が保全生態学である。
 保全生態学が前提とする価値観については、必ずしも社会全体の合意を得ているわけではない。人間がどのような形で持続可能に自然を利用していくかについては、科学的に唯一の解を決めることはできず、合意形成というプロセスを通じて初めて、社会的な解決をはかることができる。このような合意形成のプロセスにおいて、特定の価値観に基づく目的が現実的に達成できるかどうか、その目的がより上位の目的と整合性があるかどうか、その目的を達成するにはどのような行為が必要か、などの問題については、科学的に検証することが可能である。このような問題を科学的に検証し、関係者に判断材料を提供し、合意形成に資する客観的な情報提供を支援することが生態学の役割である。

自然再生事業指針は以下のページで読めます。ぜひご一読ください。

http://ecorisk.ynu.ac.jp/matsuda/2005/EMCreport05j.html#P9

 思想は価値的命題であり、思想の違いは「打破する」ことでは解決できず、合意形成(あるいは妥協)による解決しかない、というのが3人の共通認識だったと思います。これは、安田講堂事件や浅間山荘事件などを中学・高校時代にテレビで見て育ち、紛争後の大学に進学した私たちの世代に共有された、思想的対立回避のための教訓です。湯本プロジェクトの狙いは、過去の日本における自然利用には成功例も失敗例もあることを事実として示し、どのようなときに成功し、どのようなときに失敗したかを比較し、「合意形成に資する客観的な情報提供」を行うことにありました。

 GFBさんは<『第1巻 環境史とはなにか』「第4章 人類五万年の環境利用史と自然共生社会への教訓」の冒頭で矢原徹一は、「21世紀環境立国戦略」について「持続可能な社会に向けての私たちの課題をわかりやすく整理している」と評している。(中略)「日本的自然観は環境破壊を防ぐうえで無力だったと言ってよい」と断じ、梅原猛安田喜憲の主張を「ひとつの主張であって、日本人の自然観を必ずしも客観的に表現していない」と評している。しかし、その「21世紀環境立国戦略」が、梅原や安田らの説の影響を受けている。>と書かれており、この文からは私が「21世紀環境立国戦略」について「持続可能な社会に向けての私たちの課題をわかりやすく整理している」と評したことに対するややネガティブなニュアンスが読み取れます。私の「21世紀環境立国戦略」についての評価は、低炭素社会、循環型社会、自然共生社会という3つの社会ビジョンの提案に関するもので、その背景にある特定の思想を肯定も否定もしていません。低酸素社会、循環型社会、自然共生社会という3つの社会ビジョンは、梅原や安田らの思想がなくても成立します。科学者としてやるべき仕事は、思想に対して思想で論争を挑むのではなく、客観的命題に関する事実を提示し、事実にもとづかない思想的主張の範囲を狭めることだと考えています。

 自然共生社会については、私は国際発信の点で貢献しましたが、これについて書くとさらに長くなるので、次回にあらためて書きます。

3連休の記録:結婚祝賀会・マテバシイの多様性解析・論文3編改訂

3連休が終わりますね。みなさん、どう過ごされたでしょうか。私は土曜日は教え子の結婚祝賀会に出ました。研究指導したことに加え、決断科学大学院プログラムで苦楽を共にしたKさん。私が決断科学大学院プログラムをコーディネートしたことで、二人の人生を変えてしまった。教師というのは、人の人生を変えうる仕事なのだと、痛感しました。今回はたぶん、幸いな方向に変わったケースなので、教師冥利に尽きます。祝賀会はたくさんの仲間が集まり、温かくて楽しい会でした。決断科学大学院プログラムをプロデュースースするとき、一生の宝物になる友人や教師との出会いを実現したいと思っていたので、その思いがひとつ形になって、うれしく思います。日曜日は、数百サンプルのマテバシイ属の系統解析結果が届いたので、系統樹と照合しながら数百サンプルのスライドをチェックしました。いろいろ他にやるべき仕事があったのですが、連休の中日くらいは、好きなことをやっても良いはず、と居直って、マテバシイ属の同定をしました。ダラット市周辺のベトナム南部山地ではマテバシイ属の多様性がアジアで一番高いのですが、系統解析の結果をもとに数え上げてみたら、なんと57種。形態では認識しきれていなかった種がいくつもありました。すさまじい多様性です。なんでこんなにたくさんの種があるねん。コナラ属は11種で、これでも十分多いけど、マテバシイ属の多様性は別格。早く論文にまとめたいけど、10月いっぱいは、予定がいっぱいすぎて、時間がとれません。11月以後のお楽しみ。今日は、懸案の論文原稿を3つ改訂しました。夕方になってから、ようやく急ぎの仕事に着手。明朝までにいろいろ片付けなければならない仕事がありますが、今日は寝て、早朝の作業でやれるだけやります。では、おやすみなさい。

グリホサートの発がんリスクは低い

大隅典子さんが「消費者が動かした ダイソー“発がん性農薬”販売中止の英断」という記事をツイッターで拡散されていますが、私は除草剤としてグリホサートを通常の使用量で使うことによって発がんリスクが高まる、という科学的証拠は脆弱だと判断しています。以下のような論文に依拠して、冷静な議論をする必要があると思います。

8月4日Facebookより

とある方の記事について、以下のようなコメントを書きました。私のタイムラインにも転載しておきます。もし私が参照している論文が適切ではないとか、グリホサートの発がん性について信頼できる証拠がある、という情報があれば、ぜひご教示ください。私は、自分が間違っている可能性については、常に謙虚にチェックするつもりです。「農薬をひとくくりにして危険だというのは非科学的だと思います。ネオニコチノイドは多くの動物に対して毒性がありますが、除草剤グリホサートは植物のシキミ酸回路を特異的に阻害する薬剤で、動物には受容体がなく、DNAに作用する性質もないので、動物への顕著な毒性は原理的に考えにくいです。International Agency for Research on Cancer (IARC) が2015年にグリホサートを変異原性のある物質の候補リストに掲載したために議論が起きていますが、変異原性に関する実験的根拠は脆弱であり、以下の論文では、IARCのリスト掲載に懐疑的です。

https://www.ingentaconnect.com/content/wk/cej/2018/00000027/00000001/art00012?fbclid=IwAR0oGyP47Vz0ebt9ZMot3CMVluw6_F5owLohZ-s6bzO6BC9ylXMgZiYmA6s

要旨:最近の国際癌研究機関(IARC)による除草剤グリホサートの可能性のあるヒト発癌物質としての分類により、かなりの議論が生じている。IARCの分類は、いくつかの国内および国際的な規制機関によるグリホサートの発がん性の評価とは異なる。 (中略)ヒト発がん性物質としてのIARCによるグリホサートの分類は、ワーキンググループによって評価された実験的証拠の不正確で不完全な要約の結果だった。合理的で効果的な癌予防活動は、疑わしい薬剤の発がん性の可能性に関する科学的に健全で偏りのない評価にかかっている。 IARCワーキンググループの審議プロセスに関して、(IARCによる)グリホサートの誤った分類が持つ意味について(この論文では)検討する。」

友人からのコメント

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1383574218300887

UCバークレーの研究チームのメタアナリシス研究です。疫学的研究だと因果関係までは解明できませんが、非ホジキンリンパ腫の発症リスクはグリホサート使用群と非使用群とでは41%の違いがあるとのデータを示しています。

作用機序までは分かりませんが、非ホジキンリンパ腫は炎症などによっても引き起こされるので、直接DNAの損傷がなくても免疫系に影響があれば、発症リスクは高まるものと思われます。

私の返事

ざっと読みました。最新の文献がレビューされており、グリホサート問題について学ぶうえでとても有益ですね。ただし、2つ大きな問題点があります。ひとつはN=6のメタ解析であり、著者たちも指摘しているように、有意差が出た研究が公表されやすいというバイアスがかかっている可能性があります。下記の論文では、グリホサートに関するIARC の評価が「おそらく発がん性がある」、USEPAの評価が「人間への発がん性はありそうにない」と、異なるものになった理由について説明しています。USEPAの評価は、publication biasを避けるために、未発表のデータもとりいれて分析しています。EPAの制御アッセイ(論文としては公表されていない)では、発がん性が確認されたのは43件中ゼロ。論文として公表されている結果では、75%で発がん性が指摘されている。USEPAはこれらのエビデンスを総合的に評価しています。一方、IARC の評価は論文に依拠しています。

https://link.springer.com/article/10.1186/s12302-018-0184-7?fbclid=IwAR2btroPHGShWPHLlc1DRQolGtclN_fxTedgCC4abfZ9lEmwoS9TCSzAdpY

もうひとつの問題は、the highest exposureグループを使ったメタ解析であることです。この結果から、職業的にいつもグリホサートを使用している人については、非ホジキンリンパ腫の発症リスクが高まる可能性があると言えますが、日常的な経口摂取において非ホジキンリンパ腫の発症リスクが高まるとは言えないと思います。リスクはゼロにはできません。したがって、より効果の強い他のリスク因子や、日常的に摂取されているリスク因子と比べて判断することが必要です。環境問題における意思決定では不確定性が高いので、予防原則が広く採用されていますが、食品の安全性評価では、リスクをより正確に測定できるので、不確定性の大きさ自体を考慮したうえで、リスクの大小をもとに判断するのが王道です。リスクの大小を量的に評価することは、不安対策としても重要です。人間は「危険」か「安全」かというような二値的な判断をしやすく、「危険」と言われるとその評価自体が不安を誘発し、ストレスになります。したがって、感情的なおそれ(農薬はこわい、というような直観的判断)ではなく、理性的なおそれ(リスクの大小にもとづく理性的判断)をすることで、無用なストレスを生まないようにすることが重要です。科学の研究においてはあらゆる可能性を考えて検証していくことが大事なので、一見非常識な仮説についてもしっかり検証しなければいけません。しかし、科学の成果や、とくに仮説について社会に発信するときには、常識的な判断をして、感情的なおそれを拡大しないように配慮する必要があります。教えていただいたメタ解析の結果は、日常的にグリホサート散布をしている農民などに、発がん性のリスクがあることを示唆しており、このリスクについてはさらに正確に把握する必要があるし、当面の予防措置として、暴露量に制限をかけることも検討課題でしょう。しかし、日常的な経口摂取においてはっきりしたリスクがあるという説明は、ミスリードだと思います。いま得られているデータでは、食品中の残留濃度を制限するという判断には至らない(これがUS EPAの判断)。たとえばワラビには発がん性物質が含まれていますが、あく抜きをして食べれば濃度は発がんリスクを気にするレベルではなくなります。

 

クアラルンプールを経てブルネイから屋久島へ

6月25-27日にはクアラルンプールでアジア太平洋地域生物多様性観測ネットワーク(APBON)第11回ワークショップを開き、共同議長のひとりとして、新作業計画策定などの議論に対応しました。来年には第15回生物多様性条約締約国会議が昆明で開催され、ポスト愛知目標を含む次の10年間の新戦略計画が策定されます。この策定に向けて、提案をしていく時期にさしかかっています。私は、各国が国別報告書をまとめるだけでなく、生物多様性観測体制に予算を割き、観測・評価をきちんと行うことが大事だと考えています。この提案をまとめたいのですが、その一方で、新作業計画の文書を完成させる必要があります。いまも、新作業計画の完成に向けて、何人かの方々が作業を進めてくださっています。私も早くこの作業に復帰したいのですが、今日は屋久島でこれからヤクシカワーキンググループの会議に出ます。

7月1-5日には、ブルネイで開催されたFlora Malesiana Symposium(こちらも第11回ですが、3年に一回の会議なので、もっと歴史は古い)に出ました。4日に40分間の招待講演をさせていただきました。Lessons from plant diversity assessments in SE Asia:
Sterile specimens and DNA sequences enabled us to discover more than 1,000 undescribed species(東南アジア植物多様性アセスメントの教訓:花も実もない標本とDNA配列を使って1000種以上の未記載種を発見できた)というタイトルで、COP10が開かれた2010年以来の研究の蓄積を紹介しました。12か国56地点で167か所に100m×5mのプロットを設置し、全維管束植物を識別・採集し、4万4千点の標本・写真・DNAサンプルを蓄積しました。この蓄積は東南アジアの植物研究で前例のない成果であり、講演にはインパクトがあったと思います。「花も実もない標本とDNA配列を使って新種を記載した論文が審査にまわってきても、do not reject it」と言ったら、かなり笑ってもらえました。いろいろと面白いパターンも見えてきており、種分化や多種共存というテーマにもアプローチできるのですが、その前に1000種以上の未記載種を発表しなければなりません。一日1種記載しても1000日かかる。さらに、56地点のプロットデータをクリーニングして、プロットごとにまずデータペーパーを発表したいのですが、これも月にひとつのペースだと50か月(4年あまり)かかる。人生がもうひとつほしいですよ。

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Flora Malesiana Symposiumでの招待講演。藤柄の法被を着て話しました。

Flora Malesiana Symposiumの参加者は、東南アジアの植物の研究論文以外に、私が"Decision Science for Future Earth”という題で、人間の意思決定と社会問題解決に関する総説を書いているとは、誰も思わないことでしょう。こちらのプロジェクトの最終報告書をJSTに7月1日に出しました。そのため、クアラルンプールからブルネイに移動する間は、この仕事にかかりきり。

APBON、東南アジアの植物多様性アセスメント、"Decision Science for Future Earth”、ヤクシカ問題。これ以外にも、いくつか大きな仕事をしています。保全生態学入門改訂とか、九大伊都キャンパス生物多様性保全ゾーンの調査とか、一般社団法人の設立とか(これについてはいずれ書きます)。このため、迅速に返事ができないことが多くてご迷惑をおかけしています。ご容赦ください。

論文を書くのはしんどいけど楽しい

論文を書き続けるのは、道なき道をかきわけて山に登るのに似ていて、しんどいですね。ここしばらくは、おいしげった藪をこいで、力づくで前に進むような論文執筆作業を続けています。見通しが効かず、どちらに進んで良いかわからず、少し進んでは引き返して、別の道を進むという試行錯誤の繰り返し。体力(脳力)を使う、しんどい作業です。早朝覚醒型の不眠症が続き、血圧も高止まり。

なんでこんなにまでして書くかと言えば、完成すると楽しいからです。山に登頂したときの喜びに似ています。いや、作品として残るから、それ以上の喜びですね、私にとっては。

書いているのは、”Decision Science for Future Earth"というコンセプト論文。社会的問題解決の現場での意思決定に関する総説です。意欲作ですよ。7年前に始めた決断科学大学院プログラムの成果です。いろいろな分野の方から学んだ知識を総動員し、『決断科学のすすめ』で書いたスケッチをもとにロジックを精緻化し、Future Earthという大きな国際プロジェクト全体への提案として、書いています。

執筆チームの決断科学センターの若い教員の方々に、一緒に議論していただいたり、下書きを書いていただいたりして、助けていただいています。しかし、全体をまとめる作業は、私がやるしかない。私だって、若いころにはとてもこんな包括的な論文は書けませんでした。7年前でも無理でした。博士課程リーディングプログラム・オールラウンド型のコーディネータという無茶ぶりを引き受けなければ、こんな大変な仕事はぜったいやらなかった。

思い返せば、植物レッドデータブックもそうでした。かなり無理な大仕事を引き受けて、必死で取り組んだ結果、保全生態学という新しい分野の立ち上げに貢献することになりました。そういう人生を送るようなキャラに生まれついてしまったのでしょう。

サイエンス誌に、

Bodin, Ö (2017). Collaborative environmental governance: Achieving collective

action in social-ecological systems. Science 357, eaan1114.

https://science.sciencemag.org/content/357/6352/eaan1114.abstract

という総説が発表されています。最終的には、このようなスタイルの論文に仕上げて、ハイインパクト誌に投稿してみたいと思います。

・・・と息抜きにブログを書きました。

里山・里海の話題は、しばらくお預けです。『保全生態学入門』改訂作業にとりかかった後で、再度とりあげます。いちどに一つの原稿しか書けないので、当面は、”Decision Science for Future Earth"に集中します。といっても、ほんとは今日明日中に完成させないと、いろいろとやばいんですが・・。

順応管理と社会学習に関する文献

”Decision Science for Future Earth"という英文総説(コンセプト論文)を急いで仕上げる必要があり、かなり頑張っています。引用する必要があって海外発注していた以下の本が届きました。

Gunderson et al. (1995) Barriers and Bridges to the Renewal of Ecosystems and Institutions

https://www.amazon.com/Barriers-Bridges-Renewal-Ecosystems-Institutions/dp/0231101023

これ、かなりの良書ですね。生態系管理に携わる人は、目を通しておいたほうが良いです。(しかし587ページもあるよ、とほほ)

ざっとページをめくり、「これだ! ついに探し当てた」と思った章をググったら、なんとウェブ上にPDFがありました。が~ん。

http://parson.law.ucla.edu/pdf/parson-social-learning-theory-barriers-bridges.pdf

この文献を引用している論文をたどって、いくつかの必読文献をさらにゲット。たとえば

Biggs et al. 2012 Towards principles for enhancing the resilience of ecosystem services. Ann. Rev. Env. Resources 37: 421-448.

順応的な共同管理の原則を7つに整理。このテーマについては、すでに書いてしまったのですが、この総説を引用しないわけにはいかないので、ちゃんと読まなきゃ。原稿も改訂します。

Scienceに2017年に掲載された、これ。http://hpkx.cnjournals.com/uploadfile/news_images/hpkx/2017-09-30/Collaborative%20environment%20governance.pdf

も必読。沿岸域管理やMPAについても検討の対象にされています。

私の作業メモリー、パンク寸前です。時間も足りない。