「里海資本論」の危うさ

里山資本主義」に続いて「里海資本論」という本が出版されていることをtwitterで知り、昨日九大生協で買って読みました。2015年の出版ですね。数日前まで知らずにいました。

この本は、科学の本ではなく、著者の社会ビジョンを述べた本です。このような社会ビジョンには価値観がともなっており、「正しい」「間違っている」という判定はできません。著者の井上さんのビジョンに共感される方もたくさんいらっしゃるでしょう。私は「違いを認め合う社会」を理想としていますので、著者の社会ビジョンは尊重します。

ただし、二分法、二項対立は避けていただきたい。

<人間が、人間らしさや人間性を差し出してまでも、科学技術を最優先にした豊かさをくみ上げてきた「旧来型の文明」。それにとってかわる「新たな文明」が、にこやかに顔を出している。(139ページ)>

このように、文明を「旧来型の文明」と「新たな文明」に二分してとらえ(二分法)、「新たな文明」が「旧来型の文明」にとってかわるのが良いのだという考え、これは対立を生みます。対立をあえて作り出す二分法は、避けましょう。

二分法の問題点については、2006年に書いた記事をご参照ください。

https://yahara.hatenadiary.org/entry/20060707/1152285649

また、科学技術と人間らしさも、対立するものではありません。この点については、ハンス・ロスリングがTEDトーク「魔法の洗濯機」の中でとても共感できる説明をしています。下記のリンクからぜひご覧ください。

https://www.ted.com/talks/hans_rosling_and_the_magic_washing_machine?language=ja

このトークの冒頭でハンスが紹介している「水を薪で湧かし子供7人分の洗濯物手洗い」する暮らし、それは昔の里山の暮らしです。しかしハンスが4歳のとき、ハンスの母は洗濯機を買い、この暮らしから解放されました。これはミラクルだったとハンスは強調します。なぜか? 母は本を読む時間ができた。ハンスに本を読んで聞かせる時間ができた。ハンスのアカデミックなキャリアはここからスタートしたのだと、彼は熱っぽく語っています。彼のトークはほんとに感動的なので、ぜひ聴いてください。

科学技術は、人間がより人間らしく暮らす可能性を広げてきました。もちろん、環境問題を生み出したし、戦争にも使われている。しかしそれは、科学技術を使う人間側の問題です。科学技術が作り出した可能性を、私たちが良い方向に活用すれば、私たちはもっともっと人間らしく暮らしていける。私はそう思います。

<人が自然を征服し、神との契約によって思いのままに操れるとした西洋の一神教的思想とは異なる、この高い精神性こそが、次の時代を切り拓くと指摘されはじめている。(15ページ)>

この見解も、西洋的思想と東洋的思想の二分法ですね。実際には、西洋的思想の中にもトロールが住む森や、ムーミン谷のような、自然と調和した暮らしを追求する文化もある。一方で、日本人の精神性の下で環境破壊が起きなかったかと言えば、そんなことはありません。日本人は、古くはナウマンゾウやヘラジカなどを滅ぼし、江戸時代にもたとえば屋久島の原生林をかなりの規模で伐採しました。西洋であれ東洋であれ、文化の中に多様な思想がある一方で、経済発展・技術革新・人口増加とともに、環境破壊は起きました。その環境破壊を解決するうえで、科学技術は大きな役割を果たしてきました。

以上のような二分法は、「違いを認め合う社会」を築くうえで、大きな障害となります。この点で、「里海資本論」は危ういと思います。

「里海」概念にはそれ自体問題点もありますが、少なくとも以上のような二分法と結びついた概念ではありません。「里海資本論」のような二分法的主張に使われたことで、「里海」という言葉にはかなりの色がついてしまいました。この点は、科学者としては困ったなと思います。

「里海資本論」は二分法を使って議論を展開している点で、社会ビジョンの提示の仕方として適切ではない、という点をまず書いておきます。

情緒的な「里山」概念の危うさ2

 22日に書いた記事には、たくさんの訪問があり、このテーマに関心を持つ人が多いことがわかったので、続編を書きます。

 情緒的な「里山概念」という表現を見て、そうだそのとおり、と思った方と、やや不愉快な気持ちになられた方がいらっしゃるのではないでしょうか。「里山」という言葉は、里山は良いものだ、というある種の価値観と結びついているので、その言葉に批判的なことを書けば、このようなポジティブ・ネガティブな感情を呼びさましてしまうものと思います。

 保全生態学は、価値観を相手にせざるを得ない点で、基礎生態学とは違う困難さをかかえているのです。この点について、「自然再生事業指針」では次のように書きました。

2−5 科学的命題と価値観にもとづく判断
 <自然再生に関連する諸問題の中には , 科学的 (客観 的)に真偽が 検証できる命題 と,ある価値観 に基く判断が混在 していることに注意すべきである.生物多様性が急速に失わ れていると言う現象は客観的に証明できる命題である.一方,自然と人間の 関係 を持続可能な 関係 に維持すべきであるという判断は特定の 価値観に基づいており,客観的命題ではない .このような,持続可能性を目指すという価値観を前提として ,その 目的を達成するための方途や理念を客観的に追究する科学が保全生態学である。
 保全生態学が前提とする価値観については , 必ずしも社会全体の合意を得ているわけではない .人間がどのような形で持続可能に自然を利用 していくかについては ,科学的に唯一の解を決めることはできず,合意形成というプロセスを通じて初めて ,社会的な解決をはかることができる,このような合意形成のプロセスにおいて ,特定の価値観 に基づく目的が現実的 に達成できるかどうか , その目的がより上位の目的と整合性 があるかどうか ,その目的を達成するにはどのような行為が必要か ,などの問題 については,科学的に検証することが可 能である .このような問題を科学的に検証し,関係者に判断材料を提供 し, 合意形成に資する客観的な情報提供を支援することが生態学の 役割である.>

 以上の点は、保全生態学に取り組むうえで、まずしっかり理解しておいてほしいと思います。

 さて、鷲谷さんと一緒に書いた『保全生態学入門』では、二次的自然の重要性を主張する中で、以下のように「田園」とセットで「里山」という表現を使っています。

 <自然の価値の評価において従来は,ヒトの干渉が少なければ少ないほど,その自然は保護する価値が高いとされた。人間活動の影響があまり及んでいない原生的な自然の価値は,もちろん現在でも大いに重視しなければならない。しかし,上にも具体的な例で紹介したように,今日ではそれだけでなく,ヒトの干渉の大きい二次的自然についてもその保全的な価値を見直すことが必要になってきた。二次的な自然は,なんらかの人為的な干渉や管理のもとに成立するものである。原生林の伐採の後に成立する二次林,定期的な伐採,下草刈りによって維持される雑木林,放牧,火入れ,採草などによって維持される草原などがその代表的な例である。それは,自然とヒトの営為の合作ともいえる。

 そのような自然は,それぞれの地域で,工業化以前の伝統的な人々の生産・生活と結びついて維持されてきたものである。「田園」や「里山」などの言葉で表される景観をかたちづくっているのは,二次的な自然である。わが国で急速に進行しつつある,上述の例のような生物多様性の低下は,多分にそのような二次的自然からなる景観の喪失と結びついている。そのため,二次的な自然の骨格をなすともいえる,「適切な人為的攪乱によって維持される植生」の意味を問い直すことが必要となっている。>

 この主張は、今日ではかなり広く支持されていると思います。問題は、「里山」という概念が、「昔の日本人は自然と調和した暮らしをしていた」という、日本人の伝統的な暮らしを根拠なく美化する考え方と結びついてしまったことでしょう。そこで、昔の日本人は本当に自然と調和した暮らしをしていたのかを、根拠にもとづいて検証しようとしたのが、地球研の環境史プロジェクトでした。『環境史とは何か』は、その成果をまとめた本です。結論をひとことで言えば、いつも調和していたわけじゃないよ、ということです。当たり前ですが、当たり前のことにきちんと根拠を示すのは、大事です。

 『環境史とは何か』には、「いつも調和していたわけじゃないよ」という以上の大事なことがいろいろ書いてあるので、保全に取り組んでいる人には、ぜひ読んでほしいです。エッセンスが紹介されている、Shorebirdさんの書評をもういちどリンクしておきます。

https://shorebird.hatenablog.com/entry/20110402/1301738928

 『環境史とは何か』をまとめるとき、湯本さんと、コモンズ論との関係を整理しようという議論をしたことを覚えています。Ostromのコモンズ論については、いま改めて勉強して考えているので、いずれまた書きたいと思います。

 里山イニシアティブの功績や、自然共生社会の概念など、関連して書きたいことはいろいろありますが、今日はここまでにします。

情緒的な「里山」概念の危うさ

GFBさんのツイート(https://twitter.com/MC_sashiba/status/918463407363260416)で、トキやコウノトリの野生復帰をめざす事業が行政の後押しも受けてやや前のめりになっていることを知りました。ツイートにリンクされている行政文書を斜め読みして、とりあえず以下のツイートを書いておきました。

「関東でトキやコウノトリの野生復帰を目標にする計画は、「自然再生事業指針」にまとめた原則(下記)に照らして、再検討が必要だと思います。まず、「基本認識の明確化」が不十分。」

この手の野生復帰事業は、植物の移植と一緒で、復帰先(移植先)の環境を整えずに、放鳥(移植)をやろうとしています。復帰先(移植先)の環境を整えて、自然に分布を広げてくれるようにするのが基本です。復帰先(移植先)の環境を整えずに放鳥(移植)しても、うまくいきません。これは生態学的な復元事業の大原則。

「自然再生事業指針」は、自然再生推進法ができたときに、自然再生の名の下で新たな自然破壊が進まないように原則を確立しようという意図で、20名の生態学者が知恵をしぼって作ったもの。自然再生や野生復帰に関わる人は、まずこの指針をしっかり読んでほしい。

また、GFBさんは、里山概念の危うさを指摘されています。この問題については、湯本さん、松田さんと一緒に編集した下記の本をぜひご一読ください。

環境史とは何か (シリーズ日本列島の三万五千年―人と自然の環境史)

以下の書評で内容が紹介されています。

https://shorebird.hatenablog.com/entry/20110402/1301738928

私は、鷲谷・矢原著『保全生態学入門』の中で、原生林を守ることを重視する自然保護観から、二次的自然を守ることに目を向ける自然保護観への転換を主張しました(もちろん前者が不要という意味ではありません)。このような視点の転換の中で、「里山」という概念が普及しましたが、そこには情緒的な危うさもつきまとっていたと思います。

上記の『環境史とは何か』は、「昔の日本人は自然と調和した暮らしをしていた」というような情緒的な見方を、根拠にもとづいて批判的に検討することを意図して編集された本です。

この本を編集して以後も、人間と自然の関わり方については、ずっと考え続けてきました。いまとりかかっている『保全生態学入門』改訂作業では、その後の知識・思考の蓄積も生かして、可能な限り批判的かつ建設的なレビューを加筆したいと思います。

この問題は論じはじめると長くなるので、時間をみつけてすこしずつ書いていきます。この問題に関心がある方は、とりあえず『環境史とは何か』をぜひご一読ください。

 

なお、この仕事用のブログ(Y日記)のほかに、気ままなブログ(Zバージョン)を書いています。

万葉集に記録されたホトトギスの托卵

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/05/21

大伴旅人に贈られた卯の花ホトトギスの歌

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/05/20

適応的共同管理(続)

その後、いくつか重要な最近の論文を発見しました。

Cosens BA, Gunderson L & Chaffin BC. (2018). Introduction to the special feature practicing panarchy: assessing legal flexibility, ecological resilience, and adaptive governance in regional water systems experiencing rapid environmental change. Ecology and Society 23(1):4. https://doi.org/10.5751/ES-09524-230104

この論文は、the Adaptive Water Governance (AWG) project of the U.S. National Socio-Environmental Synthesis Center (SESYNC) における3年間の成果をまとめた特集号のイントロダクション。Ostromのコモンズ研究もきちんとフォローしつつ、制度(とくに法律)の重要性という実践的な課題にきちんと言及しています。この特集号は、合衆国の6つの主要な集水域(フロリダのエバーグレイズや、北西部のコロンビア川流域など)における治水・水資源管理・生態系管理の成果と課題をまとめており、河川・湿地の研究者には必読文献ですね。Cosens らのイントロダクションはとてもよく整理されていて、使えます。「パナーキー」という概念には空疎な印象しか持っていなかったので、タイトルを見て読むのを後回しにしていましたが、読んでみると、とても良い論文でした。

ちなみに、「パナーキー」については以下のウェブサイトをご参照ください。

https://www.resalliance.org/panarchy

もうひとつ、有益な論文。

Bisaro A & Hinckel J (2018) Governance of social dilemmas in climate change adaptation. Nature Climatic Change, DOI: 10.1038/NCLIMATE2936

Ostromのコモンズ研究や、社会的ジレンマに関する研究をよく整理したうえで、気候変動への適応プログラムが直面する社会的ジレンマについて整理を試みた論文。これは過去の研究のレビューではないので、いま書いているパートに引用する内容ではありませんが、自然資源管理に関する考察のあとで、議論を気候変動をふくむより広範な課題へと展開するときに、引用できそうです。

さて、読んだ論文の整理もかなり進んだので、20編以上の論文を読んだ内容をエイヤっと一段落にまとめました。その次の段落で、

Here, we propose an organizational model of cooperation in adaptive co-management practices (Figure *). While a social-ecological system is composed of an interacting set of hierarchically structured scales called a "panarchy" (Gunderson and Holling 2003), a total system can be classified to the following ...

という書き出しで、オリジナルな議論を展開するところまで来ました(自分に拍手!)。

さあここから勢いに乗って書くぞ、と気持ちは高まってますが、明日までにやりますと約束している仕事が複数あり、ここで論文執筆を中断せざるを得ません。

 

適応的共同管理

いま書いている英文総説を完成させるために、Adaptive co-managementに関する論文を集めて読んでいます。新たに得たいろいろな知識を整理するために、文章化してみることにしました。昨日まで、英語で読んで英語で書いてきたのですが、ちょっと思考が袋小路に入ったので、日本語で書いて、整理を試みます。

Adaptive co-managementというコンセプトには、2つのルーツがあります。ひとつは、adaptive management。順応的管理と訳されますが、私は、「適応的管理」でいいんじゃないかと考えています。生物進化における適応と区別するために「順応的管理」と訳してきましたが、「気候変動への社会的適応」のように、社会が新たな状況に対応していくことを「適応」と呼ぶことが一般的になってきました。このような社会変化のプロセスは一種の選択過程であり、この過程を「文化的進化」という概念でとらえることができるので、「進化」「適応」という用語を社会に拡張して使うことを許容したほうが良いと考えています。

さて、adaptive managementは生態系管理や自然資源管理において発展した考え方です。生態系や自然資源の状態は複雑かつ確率的で、さらに非平衡であることが多いので、系の動きを正確に予測したうえで管理するのは不可能。そこで、対策を実験とみなし、対策を通じて系についての知識を増やし、新たな知識にもとづいて対策を修正していくのが妥当です。言い換えれば、最適解を求めるのではなく、よりましな解を探し続けるというアプローチです。そもそも対象が変化し続けるので、最適解などありえないと考える。Halling 1978, Walters 1986 らの研究で発展した考え。

一方で、co-managementの考えは、共有地(コモンズ)管理問題にルーツがあります。Hardin 1968 は「共有地の悲劇」という有名な論文で、人間の利己的性質によって共有地はつねに劣化すると主張しました。しかし、ノーベル経済学賞受賞者のElinor Ostromは、漁業資源や灌漑用水管理の事例を調べて、住民が自主的にルールを設けて「共有地の悲劇」を防いでいる場合が多いことを示し、政府による管理でも市場原理でもないco-managementが、共有地管理に有効なガバナンスであることを立証しました。Ostromはさらに、自主契約ゲームというゲーム理論によって自主契約が成立することを論証したり、室内実験によって、関係者どうしの会話が信頼関係を構築し、自主契約管理を促進するという事実を示したりして、co-managementの有効性を立証しました。この一連の研究は、人間が高い協力性(利他性)を持っていることを示した点で、進化生物学的にも興味深いです。なぜこのような高い利他性が進化したかについて、Bowles & Gintis 2011 A Cooperative Species において集団間選択が高い利他性を進化させたと主張して議論を呼んでいます。私自身は、集団間競争の下での個体選択(社会の中で利他的な個体のほうが有利になる)のほうが有力と考えています。とくに余剰な商品の交換や知識の交換のようなコストのかからない協力によってウィンウィンの関係が成り立つ局面は広くあり、さらにこのような協力に積極的な者が社会の中でより有利な位置をしめる状況も広くあったので、集団間選択よりこのような個体レベルの選択の力のほうがずっと大きかったでしょう。

このような2つの考えが組み合わされたのが、adaptive co-managementです。そのルーツは1997年のCIFORプロジェクトにあると書いている論文(Plummer et al. 2012)があるのですが、1996年に発表されたユネスコ生物圏保護区の新戦略文書の中にすでにこの考え方が書かれています。Ostromらの"Rules, Games, and Common-Pool Resources"という本の出版が1994年であり、この本で展開されたco-managementの有効性の議論がユネスコやCIFORなどでの自然資源管理に取り入れられた結果、adaptive co-managementという考え方が確立したと考えてよいでしょう。Plummer et al. 2012 によれば、adaptive co-managementに関して2000年以来100編以上の論文が出版されているそうです。Plummer et al. 2012 はその成功・失敗例を分析していますが、何が成功要因となるかについては、あまりすっきりした結論は得られていません。

これに先立ち、Folke et al. 2005 Adaptive governance of Social-Ecological Systemsというレビューで、co-managementが成功する条件についての整理が行われています。

Folke et al. 2005 は、(1)生態系の変化に対する社会の対応能力(Social capacity for responding to and shaping ecosystem dynamics)、(2)適応と変革のための社会的復元能力(Social sources of resilience for adaptability and transformation)、(3)より広域的な環境に対する適応的ガバナンス(Adaptive governance in relation to the broader environemnt)の3点について論じています。この3点は、内容的に重複していて、もうすこし整理したいですね。

(1)については、まず生態系についての知識を学ぶことが重要で、ここでは科学者とともに、地域の生態系についての経験的知識を持つ住民が重要な役割を果たすと書いていますが、これはまったくその通りです。近代科学の知識だけでなく、伝統的・経験的な知恵を尊重するという姿勢は、その後広く支持されています。IPBESアセスメントでもこの視点が重視されました。さらに、なすことを通じて学ぶ(政策が仮説の役割を、対策が実験の役割を果たす)という適応的管理の基本概念、さまざまな関係者間の協働に依拠するという共同管理の基本概念が書かれています。ここまでは何も新しくない。次に、適応的ガバナンスには、外部者の参加を含む社会的ネットワークが必要で、この社会的ネットワークにはいろんなケースがあるけど、そこでのコラボがうまくいくにはリーダーシップが重要だと主張されています。まぁ、そうですね。リーダーは、building trust, making sense, managing conflict, linking actors, initiating partnereship among actor groups, compiling and generating knowledge, and mobilizing broad support for changeなどのkey functionsを担う・・・これだけこなせるリーダーはなかなかいませんね。この主張をするなら、どうすればこのようなリーダーシップを獲得できるかについて考察すべきじゃないかと思いました。また、trust makes it easier to work together と信頼関係の役割を強調し、社会資本への投資において信頼関係の構築を重視すべき、との主張はまったくそのとおりですが、trustそのものについてもうすこし深めた考察がほしいです。

(2)については、生態系の急激な変化に対応するうえでは、「社会的記憶」(Social memory)を動員する必要がある、と主張しています。この過程では、利他的で、社会的スキルが高く、知識が豊富なmavens(達人)と、多くの人の間のつなぎ役ができるconnectorsが協力することが重要だと書いていますが、これは浅い議論だなと思いました。知識の問題と、コミュニティをまとめるリーダーシップの問題は、分けて考えたほうが良いと思います。続いて、危機におけるリーダーの役割が強調されています。新しい状況への適応だけでなく、社会の変革が必要とされる場合には、visionary leaderが変革をリードする必要がある。う~ん。

(3)については、bridging organizationの役割が大事、という主張。これは納得できます。特定個人のリーダーシップに依拠するのではなく、いろいろな活動の橋渡しをして、うまくコーディネートする制度はとても重要。屋久島の場合には、世界自然遺産地域科学委員会ができたことで、行政間、行政と島民団体の間の調整がうまく進んだ。このbridging organizationにおいて、科学者がvisionary leaderの役割を果たし得る、という主張にも賛成。

このほかにも、18編の論文を読みました。これから頭の中をもうすこし整理して、英文化します。

空飛ぶ教授のエコロジー日記Zに書いた記事一覧

はてなブログへの移行期間に移行手続きをしなかったので、「空飛ぶ教授のエコロジー日記Z」を新たに開設して、そちらに記事を書いてきました。しかし、「空飛ぶ教授のエコロジー日記」(Y日記)のはてなブログへの移行が完了したので、今後は2005年以来のブログであるこちらに続けて書いていきます。

3月以来、「空飛ぶ教授のエコロジー日記Z」に書いた記事は以下のとおりです。

 

ナガバギシギシに付くアブラムシは敵か味方か?https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/05/16

スイバの謎

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/05/15

伊都キャンパス花だより

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/05/14

詩の解釈の多義性ー万葉集の歌の解釈について考える

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/04/08

令和の序文が詠まれた光景

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/04/05

卒業生に送る言葉

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/03/22

春を生んだ里山

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/03/17

南アルプスでのリニア新幹線工事

https://yahara.hatenablog.com/archive/2019/03/16

花開童子

https://yahara.hatenablog.com/entry/2019/03/16/103043